夢を見ていた。全てが霧のなかにあるような夢。
白く光る何かが下に向かって落ちている。どんな所へ落ちているのかは、首が動かせないから分からなかった。自分を見下ろす何か。それが人間の影だということは分かるが、造形や表情までは読み取れない。水面に映る人の顔のように不明瞭だった。相貌失認を患うとこんな風に見えるのかもしれない。
「血……低……!」
「……者の……液型……!?」
「……です!」
「輸……備! 緊……ペ……!」
何か酷く騒がしい。こんなにも眠たいのに、これだけ騒がしくするということは安眠妨害に他ならない。来ヶ谷は少し意地になって、目を閉じた。しかし、寝てやろうとすればするほど、今度は耳の方が冴えてくる。カラカラ、カラカラと軽い音が先ほどから絶え間なく鳴っている。何の音なのだろう。聞き覚えがある。これは……そう、買い物に行った時のカートの音にそっくりだ。キャスターが回る音。音の正体に気付くと、下に落ち続けているであろう光の正体も理解できた。あれは……きっと蛍光灯だ。となると、動いているのは光ではなく、自分?
そこまで気付くと来ヶ谷は「嗚呼……」と声を漏らした。それは声にならず、呼吸器を白く曇らせただけだった。
――どうして、私はこんな大事なことを忘れていたんだろう……。
いつか気付くかな
written by ぴえろ
意識が浮かび上がり、曖昧な夢の世界から確固たる現実世界に舞い戻る。
いきなり、天井の電灯に目を焼かれそうになった。しかめっ面になりつつ、身を起こして、周りを見回す。見慣れた……否、見慣れてしまった風景、自分が寝床とする和室の客間だった。いつも枕元に置いてある置時計を見る。午後十時。ほとんど丸一日寝込んでいたようだった。
「帰って……いや、また来れたようだな」
記憶は全て戻っていた。
そうだ。確か理樹と鈴の間に子供が生まれて、それを祝うための半ば同窓会のような催しを恭介が開くと連絡があって、自分は飛行機に乗った。そして、事故に遭ったのだ。記憶が戻っても、どうやってこちらに来てしまったのかは結局分からなかった。ただ類似した現象が起きている気がした。――あのバス事故の時のような、不可思議な現象が。
「ん……」
誰かがうめく声がして、来ヶ谷は意識を下に向けた。自分の腕を枕にして、理樹が眠っていた。何か嫌な夢を見ているのか、苦しげに眉根を寄せている。その理樹の傍には水の張った洗面器。他にも、腹の辺りに起きた拍子で飛ばされたらしき濡れタオルがあった。どうやら、病院には知らせず、付きっ切りで看病をしてくれたらしい。
来ヶ谷がそっと手を伸ばし、理樹の髪に触れる。まるで女の子のように柔らかくて艶のある髪質だった。しばらく、そうして撫でていると理樹の強張った表情が緩んだ。出来損ないの自分でも誰かに安らぎを与えることができる。その事実が嬉しかった。
「理……さん」
理樹が呟く。くぐもった声で聞こえ辛かったが、確かに呟いた。
理佐、そうだ。今の来ヶ谷は“理樹を佐ける者”だ。どのようにしてこちらへ来たかなど、どうでも良いことではないか。思いつつ、来ヶ谷は洗面器の端にぬれたタオルをひっかけ、それを持って立ち上がった。子供に面倒を見てもらうこと程情けないことはなかった。勢いよく立ったわけでもないのに、一瞬フラリとよろめいた。鉛のように体が重い。来ヶ谷は壁に片手をついて態勢を戻すと、洗面所を目指した。
だが、後一体どのくらいいられるのだろう。
来ヶ谷の懸念があるとすれば、それだけだった。今起きている事象は、“あの世界”に匹敵する程の奇跡だ。だとすれば……いずれは終わる。かつて、あの世界で理樹との蜜月の日々が終わったように。来ヶ谷の他、七人の仲間がいても、あの世界は永遠には続かなかった。終わることが前提の世界だったからだろうか。おそらく、違う。人の力は有限で、終わることを前提にせざるを得なかったのではないか。だからこそ、恭介達も来ヶ谷の独善的な行動を許すわけにはいかなかったのだろう。それを承知していながらも脱線したのは、来ヶ谷自身だ。そのことで恭介達を恨んではいない。
他の仲間がいたからこそ、あの奇跡を長期間維持することができたのかも知れない。が、今のこの奇跡は来ヶ谷一人で叶えている。ならば、今度は以前よりもずっと短いのではないのか。そんな懸念を抱きながら、来ヶ谷は洗面所の中へ入っていった。
「――っ」
洗面器を蛇口の下に置いて、鏡を見た瞬間、ギョッとした。――鏡に自分の姿が映っていなかった。
しばらくの間、来ヶ谷は目を丸くして鏡を見ていたが、次第に背筋が凍りついてきた。いつもの自分ならは不思議なことがあるものだと興味が先立ちそうなものだが、現状では到底そんな暢気なことは考えられなかった。ただただ、不吉な前触れにしか感じられなかった。恐る恐る手を伸ばす。ぺたりと手の平をくっ付けてみると冷たい鏡に体温を吸われ、白い靄が丁度、手の形に浮かび上がる。自分の手を見る。目に映っている。だが、鏡を見れば、それらの現実味が全て否定される。それは、明確な負の予兆だった。
「何だこれは……何なんだっ!」
来ヶ谷はこの時、生まれて初めて恐怖した。元々感情に疎く、胆も太い来ヶ谷にとって初めて知る感情だった。
「まさか……」
ふと、来ヶ谷の脳裏にある考えが過ぎった。この変調は突発的に発生したのではなく、ずっと以前から起こっていたことではないのかということだった。理樹が心を許してくれた後でも料理を食べきってくれなかったのは、来ヶ谷の味覚が鈍くなっていったからでないのか。リトルバスターズの面々との試合の時、キックを思うように決められなかったのも、体の感覚が鈍くなっていったからでないのか。来ヶ谷は記憶を失ったのではなく、自ら封印していたのではないのか。未来の記憶があれば、繋がりが強まり、本来魂があるべき所へ連れ戻されるのを恐れて、本能的にそうしていたのではないか。憶測を重ねた脆弱な論理、否、妄想のはずだが、来ヶ谷は自身の内から真実の響きがしてくるのを感じていた。
「フッ、我ながら、どうかしているな……」
取り澄ましたように薄く笑う来ヶ谷だったが、口端は震えていた。いつものように笑えなかった。胸痛や奇妙な夢を見て、気が動転しているだけだ。寝起きだったせいか、冷汗を掻いたせいか、異様に喉が渇いていた。鏡の横に備わっている棚を来ヶ谷が開く。その中には来ヶ谷と理樹、両方の歯ブラシや歯みがき粉、うがい用のコップなどがある。位置は完璧に覚えている。たとえ、目を瞑っていても、取り出せる。
来ヶ谷はいつものように取り出そうとして、いつものように取り出せないことに気がついた。自分のコップを掴もうとする度、空を切る。何度も何度も。恐る恐る目を開けて、来ヶ谷は言葉を失った。コップは来ヶ谷の記憶通りの場所にあった。が、それは今まさに来ヶ谷の目の前で、薄くガラス細工のように透明になって、消滅した。初めからそこなかったように。来ヶ谷は、己が辿る結末を見た気がして、その場にへたり込んだ。――残された時など、とうの昔に無くなっていた。
「理佐さん! どこに行っちゃったの!?」
理樹の呼ぶ声がした。来ヶ谷が姿を消したことを心配しているのだろう。嗚呼、行かなければ。理樹が、呼んでいる。思考は停止していたが、半ば条件反射のように来ヶ谷は今一度、震える膝に力を込めた。
渡り廊下を歩く僅かな時間の間に、来ヶ谷は理樹にどう話すかを考えていた。
真実を包み隠さず話したとて信じられるような類の話ではないし、来ヶ谷自身、己が身に起きていることを上手く説明する自信がなかった。ただ……別れるのならば、きちんと、真っ当な別れ方がしたい。あの世界の時のように訳の分らぬまま、困惑させたまま別れて、悲しませるような真似だけはしたくなかった。
木板をけたたましく踏み鳴らす音がして、廊下の曲がり角から理樹が現れる。来ヶ谷を見つけて、パッと明るくなった顔に微笑みを返したその時には決めていた。嘘も方便だと。
「理佐さん、あぁ、よかった。目が覚めたら、いないし。どこに行っちゃったのかと思っちゃったよ」
「あぁ、うん……すまない」
「理佐さん?」
心ここに在らずな返答に理樹が小首を傾げる。
「大丈夫? もしかして、まだ具合悪いんじゃ? あの後も大変だったんだよ。救急車呼んじゃダメだって言われたから、布団敷いて、理佐さんが使ってる部屋まで運んで……引きずっちゃったけど擦り傷とか無い? それでね、後、うなされたからおでこ触ってみたら熱もあって、だから僕――」
「なぁ、理樹君」
はしゃぐ理樹の口を言葉で遮る。こうしている間にも自分は露のように消えてしまうかもしれない。焦りで心のゆとりが切り捨てられてしまう。いつものように優しく接することができない。
「実はな。その、授業参観日に行けそうにないんだ」
理樹を視野から外して、廊下の壁に話しかける。どんな顔をして放せばいいのか分からなかった。
「昨日の今日で約束を破ってすまないとは思うが……」
「え、な、何で……?」
「君が寝てる間に電話があってね。アメリカにいる母が倒れたんだそうだ。家には誰もいなくてね。私はその看病に行くことになった。だから、もう君の傍にいられそうに無い」
「そ、そうなんだ。それじゃあ、しょうがないね……」
まるで、雨が降ったせいでピクニックに行けなくなって残念だ、というような軽い失望。少し勘違いをしている。これが今生の別れだと理解していない。だが、時間がない。教師の真似事をしていた時のように丁寧に教えている暇はない。
「ああ、だから、今日でさよならだ。――もう、会うこともないと思う」
だから、ただ告げる。
「えっ、な、何で!? 何でそうなるの!? 理佐さんのお母さんがよくなったら、また帰って来てくれるんじゃないの!?」
案の定、理樹はうろたえる。その反応は予想していた。次の言葉も容易く出てくる。
「それは無理だ。母の病気が重くてね。ずっと付き添ってあげないといけないんだ」
「ずっと……って、どのくらい?」
「ずっとはずっとさ。一生、ってことだよ」
会話中のほとんどを壁と話しているような来ヶ谷だったが、一通り話が済んで理樹の方へと目をやった。
「――じゃあ、僕も一緒にアメリカに行く」
そして、思わぬ理樹の言葉に目を丸くした。
「な、何を言い出すんだ!?」
「だって、理佐さんアメリカに行くんでしょ? だったら、僕も行く」
「無理だ!」
「どうして無理なの?」
「それは……」
思いの外、意固地な理樹の態度に言葉の半ばから失速して、閉口する。長年会っておらず、また小学生の理樹とばかり暮らしていたから忘れていたが、思えば、理樹にはこんな所があった気がする。普段は中性的な外見通り、少し頼りなさげなのにこうと決めたら、頑迷な強情屋に変貌するような所が。折れるわけにはいかない。折れた所で意味がない。方便とは言え、理樹の傍にいられなくなることには変わりはないのだから。
「理樹君、アメリカに行くというが、キミは英語が話せるのか? 英語ができなければ、買い物一つできやしないんだぞ?」
「……頑張って覚える」
「それにな、アメリカは銃社会だ。そこら中に銃が溢れてる。もし、家に強盗が入って来て、撃たれでもしたらどうする?」
「……ちゃんと戸締まりする」
「アメリカの恐い所はまだあるぞ。いいか、理樹くん。私たちのような肌の色をした人を黄色人種と言ってな。アメリカじゃ、ジャップだなんて言われて、差別――つまりは、理由も無くイジメられるんだぞ?」
「……イジメられても我慢する」
「いい加減にしてくれないか……。ともかく、ダメなものはダメなんだ!」
言ってからハッとして、来ヶ谷は苦虫を噛み潰したように表情を歪めながら、理樹から顔を逸らした。ダメなものはダメ、何と押し付けがましく傲慢な返答なのだろう。まさか自分が理樹に対して、こんな乱暴な言葉を使うとは思ってもみなかった。だが、他にどう言えば良かったのだろう。
「どうして付いていっちゃダメなの!? 理佐さん、僕のこと嫌いになっちゃったの!?」
理樹にそう叫ばれて、来ヶ谷は思った。あぁ、そうすればいいのか、と。理樹に好かれたまま別れようとしていたのは甘かったのかもしれない。再び、壁の方へ顔を向ける。理樹の顔見ていては、言える気がしなかった。
「あぁ、そうだ。嫌いになったんだ。いや、嫌いだったと言うべきかな。出会って早々寝小便を垂らされるし、料理はついに全部食べてくれなかったし。そもそも、私は一人が好きなんだ。キミが学校に行ってる間に慣れない共同生活の疲れを取るつもりだったのに、キミは中々学校に行かず、理佐さん理佐さんと四六時中引っ付いて回るもんだから疲れる一方だった。多分、私が倒れてしまったのも、キミのせいじゃないかな」
心は空虚だった。リトルバスターズの皆に、理樹に出会う前のように。
「限界なんだ。――もう、私に近寄らないでくれ」
話はそれで済んだつもりだった。理樹は俯いて、肩を震わせていた。酷く気が咎める姿だったが、ギュッと目を閉じ、眉根を寄せて耐える。訳が分からぬまま、別れるよりこの方がいいように思えた。そのまま理樹の脇を抜けようとした時、腹部にドンと衝撃が走った。眼を下に向けると理樹の頭があった。続いて、胴を締め付けられる。
「一体、何を! 離すんだ!」
「嫌だ! 離さない!」
「くっ、この」
理樹の腕を強引にでも解こうと掴んだ時、理樹が言った。
「理佐さんも……そうなんだ」
「え?」
「理佐さんも、お父さんとお母さんみたいに僕を置いてくんだ! だったら……だったら、僕もう、ずっと一人でいいよ! 好きな人が出来ても、どうせいなくなっちゃうなら、最初から一人の方がずっとずっといいじゃないか!」
「それは違う!」
反射的に叫んだ瞬間だった。突然、理樹の抱き締める力が消え、ずるりと来ヶ谷に寄り掛かったまま膝を着いた。ぐらり、理樹の首が揺れて、慌てて来ヶ谷は手を伸ばした。横倒しになって、頭を打つ前に肩を掴んで止めることができた。理樹は気を失っているようだった。
「ナルコレプシー、か……」
ナルコレプシーは心の病、気まぐれに訪れることもあるが、強い不安を感じると発症することもある。それほど自分と別れ難かったのだろうか。来ヶ谷は理樹の頭を抱き寄せ、「すまない」と耳元で囁いた。訳が分からないまま別れるよりマシ? 詭弁だった。理樹にしてみれば、別れることには変わりない。今なら、あの時流せなかった涙が流せる気がした。
理樹を彼の自室まで運び、ベッドに横たえた。
離れ難かった来ヶ谷は、理樹の傍で一緒に寝転んだ。いつか、と言ってもほんの数日前のことだが、こんな風に理樹に添い寝してやったことがある。理樹ぐらいの年の瀬ならば、既に一人寝していてもおかしくないが、両親を失ったことでふと人恋しくなってしまったのだろう。理樹を軽く抱き締めながら寝た日は、いつもより眠りに落ちるのが早かった気がする。心がいつになく穏やかだった。凪の海のように。
それは今も変わらない。このままのんびりと風に揺れるカーテンを眺めながら眠りにつけば、心安いまま消えることができる確信があった。が、残される理樹を思うと胸が掻き毟られるようだ。目覚めれば、また泣きそうな声を張り上げて、理佐さん理佐さんと家中を探し回るのだろうか。
私はキミに何をしてやれたのだろう?
来ヶ谷は思う。突然やって来て、構って、慰めて、立ち直らせて、その癖、傍から去る。同じ喪失の悲しみを二度味あわせるだけ。ぬか喜びさせただけで、むしろ、余計なことしたように思える。これでは同じだ。――あの世界と同じ結末だ。
「ここまで進歩がないと、もう笑えてくるな……」
来ヶ谷は自嘲したが、すぐに自分が理樹のためにできることは何か考える。今、起きている現象はあの世界と似て非なるものだ。ここは間違いなく現実で、この世界そのものが消え去るわけじゃない。ならば、できることがあるはずだ。残せるものがあるはずだ。自分の存在が消えても理樹に残せるもの。それは……。
「そんなもの……決まっているじゃないか」
――仲間だ。
呟くと来ヶ谷は理樹のベッドから抜け出した。残された時間はそれほどない。
理樹と恭介たちを引き合わせる。それは昨日彼らに出会った段階で考えていたことだが、これほど急を要するとは思ってもみなかったので、準備がまるでできていなかった。昨日の段階で、理樹を仲間に入れてやって欲しいと言っていることだけが僥倖だった。
現在、午後十時。家を訪ねるにはあまりに遅い時間帯だ。そもそも、彼らの住所を一人も知らないのだから訪ねようがない。連絡先も知らない。あの時、サッカー勝負で負かした時に聞いておけば良かったと思った所で後の祭りだった。来ヶ谷は古典的な手段として、電話帳による検索を試みようと階下に降りたものの、あるのはタウンページとハローページだけで、個人の電話番号を検索できるようなものはなかった。もしも、個人の電話番号を検索できる電話帳があったとて、そこに記載されているのは家主の名前だろう。旧リトルバスターズメンバーの両親の名前など来ヶ谷が知っているわけがない。悪戯電話覚悟で片っ端からかけていただけだろう。
「八方塞がり、か……クソッ」
来ヶ谷は部屋を歩き回りながら、ギチっと親指の爪を噛んだ。こんな気分は初めてだった。渇望という感情。明確な目的があるのに、そちらに近づく術が見つからない。時間があれば、容易く解決できるのにそれさえない。苛立ちと焦りが募るばかりで、ただただ時間が無為に過ぎていく。
未来から来たとて、何のアドバンテージもない。普通、先のことを知っているというは大きなメリットがあるはずなのだが。せめて、過去……ここから遠い未来に旧リトルバスターズメンバーの住所なり電話番号なりを聞いていれば良かったが、聞いたことがない。しいて知ってると言えば、理樹と鈴が結婚した時の新居ぐらいのものだが、それは今の状況に関係がない。
「……いや、あるいは」
閃きだった。他に有効な打開策がない来ヶ谷は、一縷の望みに全てを賭けることにした。来ヶ谷は急いで和室の客間まで戻り、片隅にあるスーツケースを開いた。中に入っていたはずの物が幾つか忽然と消えている。消滅の歩みは徐々に近づいているが、来ヶ谷の危惧はそんな所にはない。長い間放置され、衣服に埋もれていたそれを拾い上げる。
携帯電話である。しかし、薄っすらと透明化して消滅しつつある。
それが繋がるなら言うことはないが、おそらく繋がらないだろうし、使っている間に消え去るだろう。だが、来ヶ谷は本来の機能を求めているわけではなかった。外部記憶として使えれば十分だ。そこにはリトルバスターズの電話番号がある。遠い日の記憶なのであまり当てにならないが、確か棗恭介の電話番号を受け取った時、赤外線を受信する形で登録したはずだ。もしも、彼が一定以上の几帳面さを持ち合わせていたのならば、来ヶ谷の携帯電話に伝わっているはずだ。――棗恭介の自宅の電話番号も。
電源をつけたまま放置していれば、既にバッテリーが切れている頃だろうが、この世界に来てすぐに切った。ならば、まだ持っている可能性がある。電源のボタンを長押しする。たかが三秒前後が異様に長く感じられた。握って見えないはずの手の平が段々クリアになっていく。電源は着くだろうか、消滅までに間に合うだろうか。つらりとこめかみを汗が伝う。パッと見慣れた待ち受け画面が明るく浮かび上がる。希望の火はまだ灯っている。
恭介の自宅の電話番号と思しきものを頭に叩き込む。念のために他のメンバーの自宅番号があるか確認しようとするが、握っている感触がなくなった。一瞬、残像だけ残して携帯電話は消滅した。また一つ、来ヶ谷唯湖が存在していたという証拠が消えた。
「いいさ、そんなことは……」
来ヶ谷は電話のあるリビングへ向かった。受話器を上げ、プッシュホンを押していく。夜遅いというのがマイナスに働いたのだろう。中々出てはくれない。放っておけば切れると思われているのだろうが、来ヶ谷も必死だ。電話線が切られでもしない限り、鳴らし続けるつもりだった。数回コール鳴った後、誰かが出た。
『申し訳ないが、今日はもう遅いのでまた後日お掛け直し下さい』
こちらが何か言う前にガチャリと切れた。言葉遣いは丁寧だったが、語気は明らかに不機嫌だった。おそらく、恭介の父だったのだろう。息子とはやはり勝手が違うなどと考えつつ、もう一度掛ける。今度はワンコールで出た。
『しつこいぞ。明日、掛け直せと言っている!』
「お待ち下さい! 少しでいいですから、話を聞いて下さい!」
切られる前に言葉を投げかける。まだ通話状態であるということは届いたのだろう。
『……ウチに何の用だ』
「夜分遅くに申し訳ございません。私は理佐という者ですが、実はお宅の恭介君に用事があるのです」
『恭介に?』
「はい。できれば、本人をお出し願いたいのですが……」
沈黙が広がる。警戒されているのだろう。来ヶ谷とて、夜遅くに理樹に用事があると大人から言われれば、警戒する。
『いや、その必要はない。私から恭介に伝えておこう』
故にそう言われても仕方がないことだと来ヶ谷は思う。が、それではダメなのだ。恭介自身に確約させねば、意味がない。伝えてくれる保証など何処にもないのだ。
「実は彼と個人的な約束をしまして、そのことについてお電話させて頂いたのです」
『約束? それは一体どのような?』
「申し訳ありませんが、内容までは教えることはできません。何しろ、“個人的”な約束なもので。ただ、決してご子息に害をもたらすようなものではないのです。どうか、お取次ぎ頂けませんでしょうか? お願いします……」
誠実さと切実さが電話越しでも届くよう祈った。見えるはずもないのに、来ヶ谷は頭を下げていた。
『どうしても、今日でなければ駄目なのですか?』
「はい。明日になれば、私は日本にはいませんから、その挨拶も兼ねて……」
正確には“この世界”からいなくなるわけだが、同じことだ。恭介の父が何か勝手に勘違いするなら、それすらも利用するつもりだった。理樹に仲間を残す。そのためなら何だってする。嘘の一つや二つ吐くぐらいどうということはなかった。
『……少々、お待ち頂きたい』
溜め息の後、のんびりとしたメロディーが流れる。保留ボタンを押したのだと理解すると、肩の力が抜けた。しばらくして、ピッと電子音が鳴った。
『もしもし、棗ですけど?』
「恭介……氏、か?」
幼い声の上、電話越しだったせいで一瞬、恭介だと分からなかった。
『氏? まぁいいや。そうだけど? 何?』
「実は昨日の件について何だがな……」
『あ、いや、ちょっと待ってくれ。先にこっちから聞いていいか?』
「何だ?」
少し苛立つ。来ヶ谷は一刻も早く本題に入りたかったが、気を損ねられて切られでもしたらそれで終いなので、無下にはできなかった。
『――あんた、誰だっけ?』
その問いかけは来ヶ谷の目を丸くさせた。
「誰って……父親から聞かなかったのか? 理佐だ! 知ってるだろう!?」
『名前は知ってるよ。うーん、どっかで聞いたことあるような気がするんだけど、やっぱ思い出せないんだよなぁ』
「馬鹿な……何を言っている!? つい昨日サッカーをしたばかりだろう!?」
『サッカー? あぁ、真人と謙吾がPK勝負してたけど?』
「そういう意味じゃない!」
『な、何だよ。ちょっと思い出せないから聞いてるだけだろ? 怒鳴らなくたっていいじゃねーか……』
当たり散らすように叫んでから、冷静さを欠いてることに気づく。胸に手を当て、深呼吸をする。
「二人のPK勝負の後はどうだ? 覚えているか?」
『えーと、確か俺と鈴が混ざって、2on2の変則PKやって遊んだと思う』
それが作り変えられた記憶なのか、本来そうあるべき記憶だったのか、来ヶ谷に知る術はない。どちらにせよ、来ヶ谷は消えつつある。――人の記憶からも。
「なぁ、よく思い出してみてくれ。その変則PKに誰か他の人が入ったりしなかったか?」
『他の人? あぁ、そういや、鈴が派手に外して、橋本先生に取って貰ったっけなぁ。何かコーナーキックみたいになって、そのままゴールに入ってすげぇ皆で驚いた!』
「それは……本当に橋本先生とやらだったか?」
『え、だって、あのシューズは橋本先生の……あれ? でも、あの先生あんなにサッカー上手かったっけ? それに髪もあんな長くなかったような……あれ? え、変だな。何か色々おかしいぞ? あ、痛つつ、何か頭痛くなってきたぜ』
あぁ、そういう風に変えられていくのか。そして、何時しか、おかしな矛盾も気に留めなくなっていくのか。私はそうやって記憶の中からも去っていくのか。ある意味、死より酷い結末だと来ヶ谷は何処か他人事のように思った。
「いや、無理に思い出さなくてもいい。ただ……その後、橋本先生から何か言われなかったか?」
『え、何かって? 暗くなる前に早く帰れって言われたこと?』
「違う。もっと、約束めいたことだ」
『約束……あっ! そう言えば、仲間に入れて欲しい子がいるとかいないとか聞いた気がするな』
「あぁ、実はな。私がその子の保護者なんだ。今日、私から電話があると橋本先生が言っていただろう?」
『え、そうだっけ? ごめん、完全に忘れちまってたみたい』
「いいさ。それで何だが、明日早速ウチに来てくれないか。住所……じゃ、分からないだろうから、具体的な目印を言うぞ」
『あ、ちょっと待ってくれ。メモの準備すっからさ!』
「あぁ、それぐらいの時間は……きっとある」
いつしか来ヶ谷は自分の声が震えないように努力していることに気づいた。無性に空しかった。確かに存在していた楽しい思い出を、自らの行為で身勝手な妄想としていくことは。保留も押さずに置いていったのだろう。背後の雑音が入ってくる。ガサゴソと物を漁る音。妹の声。何だ馬鹿兄貴、珍しく長電話だな。喜べ、鈴。明日、新しい仲間が一人増えるぜ! 何ぃー!? そんな話聞いてないぞ! 勝手に何しとるんじゃ! 誰が良いって言ったんだ! いや、俺がリーダーだし。
人見知りの鈴がうろたえる姿が目に浮かぶようで、来ヶ谷は笑みが零れた。それは間違いなく“喜”の感情のはずなのに“哀”の感情も同時に溢れて、来ヶ谷の頬を一筋の雫が伝った。今、同じ時間の中にいるはずなのに、まるで遠い国の出来事のようだった。いや、事実、彼らから遠い人間なのだと実感してしまった。
一通り、この家の住所を恭介の土地勘に当てはまるように伝えた後、来ヶ谷は言った。
「なぁ、恭介氏。その子はな、臆病で弱くて少し変な所のある子だが、とてもいい子なんだ。仲良くしてあげてくれ」
『……何かウチの妹みたいだな、そいつ』
「あぁ、キミの妹とも仲良くしてくれる。保証してもいいくらいさ。――だから、よろしく頼む」
恭介は子供らしく溌剌として言った。
「おう、任せとけ!」
電話を切った後、来ヶ谷は大きく溜め息を吐いた。バトンは確かに渡し終えた。そんな溜め息だった。
二階に上がり、理樹の部屋に入る。
相変わらず、理樹は眠ったままだった。寝返り一つでも打っていれば、微笑ましく跳ね飛ばした掛け布団でも掛け直せた所だが、出た時と何の変化もなかった。まるで眠り姫のようだと思って、理樹の中性的な容姿だとあまり冗談にも聞こえなさそうで、少しだけ可笑しかった。
ベッドの傍らに座り、理樹の髪を撫でる。この手触りは何度味わっても飽くことがなかった。
「やっぱり、キミを救うのは私では役不足らしい」
偽りなく言えば、悔しい。時間さえあれば、自分だけでも理樹を救ってみせるというのに、傍にいることさえできない。ふと、何のために自分は過去へやってきたのだろうと思いを馳せる。
てっきり、来ヶ谷は理樹と恭介の掛け橋となるために過去へやって来たと思っていたが、もしかすると来ヶ谷が何かしなくとも、あの橋本という女教師が二人を引き合わせていたのではないだろうか。恭介の記憶からそんな気配がした。
何をしようが変わらない。結果は最初から決まっていて、来ヶ谷は必死であればあるほど、滑稽な道化師のように踊っていただけではないだろうか。
「まぁ、それでも構わんがな……」
理樹が救われるなら、他はどうでも良かった。この果てに死が待っていたとしても。それに踊っていたのは、来ヶ谷の自由意思によるものだった。だから、それでいいのだ。
もしかすると神というのは案外慈悲深く、人間が死に逝くほんの一瞬……文字通り、最期に目を閉じる一瞬の間に永い夢を見せるのかもしれない。過去から未来、何処へでも行け、好きなことができるが、最後には帳尻合わせのために全てを消して、こう言われるのだ。どうだい? 楽しかったかい? じゃあ、次に君が生まれるのは千年後だよ。さぁ、あの世へお行き、と。もしかするとあのバス事故の時、棗恭介はそんな神の御技を盗み出すことに成功したのだろうか。ならば、自分にもできないだろうかと思ったが、すぐに思い直した。所詮、最初に戻れるとしてもやれることは変わらない。
来ヶ谷にも誰かを愛することができた。死する前にそれを知ることができただけ、僥倖だった。
「全く、“恋”だけでなく“愛”まで教えるとは……よくよく憎らしい男だな、キミは」
頬をつんつんと突く。張りのある肌がいとも容易くはじき返す。
しばらく理樹の顔を眺めていると、頭に靄がかかったような気分になった。眠気にも似ていて、来ヶ谷は目を擦る。手が薄く透明になりつつあった。ああ、もうそんな頃かとぼんやり思う。もう、恐ろしくはなかった。やるべきことは全てやった。痛みもなく、露のように消えるならそれもいいと思う。
「最後にこれだけは言っておくよ、理樹君」
耳元で幼子をあやすように、子守唄を歌うように、優しく囁く。
「これを教えてくれたのは、他ならぬキミだぞ。……何時かまた高校生の私と出会ったならば、そのことを教えてやってくれ。私は、ああ見えて何も知らん小娘だからな」
フフッと来ヶ谷は小さく笑った。
「悪い夢はもうすぐ覚めるよ。次に目覚めたなら、そこにはきっと……」
――楽しいことが待っているよ。
理樹の髪をかき分け、小さな額を露わにする。来ヶ谷はそこにそっと口づけた。唇が触れた感触は、無かった。
とても悲しいことがあった。
突然、お父さんとお母さんが僕の前からいなくなってしまった。事故で死んでしまった、と聞かされた。理解できても、信じられずにいた。最後にお父さんとお母さんに会ったけれど、それはお父さんとお母さんじゃなかった気がする。だって、出かける前とは全然違っていたから。お父さんもお母さんも、あんな青白い顔をしていなかったし、手だってあんなに冷たくなかった。僕にはただ、よく出来た人形のようにしか見えなかった。
――きっと、僕はわるい悪魔か何かに捕まって、こんな夢を見せられてるんだ。
そんな風に考えた瞬間、目の前が真っ暗になった。それはそのままの意味で、膝の力がスッ抜けて気が付いたらベッドで寝ていた。お父さんとお母さんのお葬式まで僕は伯父さんの家に泊まっていたけれど、時々、僕はそんな風に気絶するようになった。これは変だということで、葬式の準備をしている合間に僕は伯父さんに連れられて、お医者さんに診て貰った。ナルコレプシーという何だか難しい病気だと聞かされた。命に関わる病気でないことが分かったから、その時はひとまず病気のことは置いておいて、葬式を先に済ませることになった。
葬式が終わってから、僕はずっと一人だった。
一人でご飯を用意して、掃除をして、洗濯をして、買い物に行って、何でも一人でやってきた。ふと僕は一体いつからこんなことができるようになったんだろうと思い返すけど、よく分からない。多分、必要だから覚えたんだ。
夜、お父さんの部屋から持ってきたラジオをつける。お気に入りの局なんてない。落語やニュースは聞かず、パーソナリティがいるラジオ番組ばかりを聞いて回った。ハガキの投稿を読んでいるパーソナリティが好きというわけでもない。ただハガキを投稿した人は必ずこの番組を聞いていて、僕も聞いているわけで……だから、その時だけは誰かと一緒にいるような気分になれた。
伯父さんは僕が学校にも行かず、こんな暮らしをしていることを知っているのだろうか? 知られた所でどうということはないけれど。独りがいい。独りが好きだった。誰にも干渉されず、誰にも干渉しない。時々、泣きたくなるぐらい寂しくなるけれど、ラジオがあれば紛らわすことができる。
人はいつか別れる。何の前触れもなく。だったら、ずっと独りでいい。
痛いんだ。大切な人と離れ離れになるのは。
辛いんだ。好きな人のことを思い出すのは。
だから、その日も僕は独りで過ごす……はずだった。
ピンポンとチャイムが鳴った。
誰だろう、伯父さんだろうか? ハウスキーパーの人を雇うとか言っていたような気がする。僕は右から左に聞き流していたけれど、どうしただろう。頷いたような気がする。その人が来たのだろうか。一人で家事をこなすのは大変だけど、いい暇つぶしになっていたのに……。
玄関の踏み台をしいて、鍵穴から覗く。ツンツンした髪の毛? のようなものが見えた。またピンポンとチャイムが鳴る。話し声が扉越しに聞こえる。ここじゃなくね? いや、ここで合ってるはずだぜ? 留守なんじゃないのか? なら、仕方がない。行こう。待て、もう一回だけ確認していこう。いいけど、敵は待っちゃくれないぜ? あぁ、だから最後に一回だけだ。
ピンポンと三度目のチャイム。彼らは誰だろう? 僕は全然知らない。多分、他の子の家と間違えてるんだろうな。放っておけば帰るだろう。僕は踏み台を片づけた。今日はスーパーの特売がある日だ。そっちに行かないと。
――でも、ここじゃないよって言ってあげた方がいいよね。
僕は、扉をゆっくりと開いた。そこには四人の男の子たちがいた。
――なぁ、理樹君
耳の奥で誰かが、僕に囁いていた。
失えば、悲しい。辛い
「強敵があらわれたんだ! きみの力がひつようなんだ!」
でも、それを恐れて、出会わないより……
「きみの名前は?」
「……なおえ、りき」
「よし、いくぞ、りき!」
人と出会い、一緒に過ごす時間の方が……
「ね、きみたちは!?」
大切で、かけがえのないものだってことを……
「おれたちか? 悪をせいばいする正義の味方。ひと呼んで……リトルバスターズさ!」
君は――いつか気付くかな
To be continued...
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ぴえろの後書き
どひぃー、ようやく終わったー。長かったー。自分が書いてきた作品の中で一、二を争う難産でした。この後書きとかタグとか抜いても、約100KB近くあるんだろうなぁ。処女作以来だよ、こんなに書いたの。大体いつも20KB前後が目安なんですが、その五倍。作品五つ分の文量があります。(==; しかも、その分、いい作品とは限らないのが悲しい所。普通に五つ作品書いた方が良かったんじゃないだろうかと思います。(´・ω・`)
実はあともうちょっと続きますけどね。「これでいいやー」という人はここで帰った方がいいかと。物語としてはもう終わってるんですが、自分と同じくハッピーエンド主義で「姐御死んでいいわけないだろう!」って人だけ進んでください。