来ヶ谷の家政婦として働かせて欲しいという申し出の後、給金の話になったが一般的な家政婦の給金の相場など分からなかったので、家庭教師と同程度に設定した。直枝幹もそれを了承した。告別式が終わってすぐだと理樹も心の準備ができないだろうから、一日を置いて訪ねることになった。
 告別式が終わったのは昼だったため、来ヶ谷はその日のうちに直枝幹から銀行の所在を聞き、まず手持ちのドル紙幣を両替した。そして、直枝幹からの前金と手持ちのドル紙幣を換金した資金で、ローテーションが組める程度の衣服と下着、スーツケース、その他生活用品を購入した後、ビジネスホテルで一泊した。夢でも見るように、目が覚めたら全て元通りなんじゃないかと少し期待したが、そうはならなかった。記憶もやはりここ数日間だけが戻っていなかった。
 次の日も全く同じスーツで向かうには多少抵抗があったが、最初ぐらいキチンとした格好でと考えるとこのスーツぐらいしかなかった。同じ服を連日着ること自体は、徹夜で論文を仕上げることもあったので、気にはならなかったが。
 来ヶ谷が理樹の家の前に立ち、門柱に備え付けられたインターフォンを鳴らす。

「はい、どなたで――あぁ、貴方ですか。お待ちしておりました」

 しばらく待っていると、直枝幹が玄関扉から顔を覗かせた。
 流石に小学生の理樹を一人で夜を越させるわけにはいかず、直枝幹が一晩泊ったのだ。

「実はもうそろそろ遅番で出勤しなければならないので、助かりました。理樹君には既に貴方のことは伝えております。後は任せてもよろしいでしょうか?」
「はい、お任せ下さい」
「今、理樹君は酷く落ち込んでいますから、その……酷く無愛想ですが、お気になさらないで下さい」
「両親を一度に亡くしたのですから、それはそうでしょう。覚悟はできています」

 そう言ったものの、内心は不安の方が大きかった。子供の面倒など見たことがない。それでも、来ヶ谷に多少の自信があったのは、理樹と接したことがあるからだ。無論、高校生の理樹と小学生の理樹では別人だろうが、そこに関しては目を瞑っていた。

「それと……ですね。理樹君には少々風変りな所がありまして、その……何の前触れもなく、突然気を失うかもしれません。あっ、いえ! ご心配なく! 別段、命にかかわる病気ではありませんし、放っておけばすぐに目を覚ましますから。もし、発作が起きた場合、どこか安全な所へ理樹君を移しさえすれば結構です。医師によると、それはナルコレプシーという心の病だそうで……薬などで治る類のものではないそうです」

 我々にはどうしようもないと言わんばかりだった。聞きながら、来ヶ谷は人が悪いと苦笑いを浮かべていた。来ヶ谷にとって、理樹のナルコレプシーは既知だから良いものの、通常ならば、それは引き受ける前に告げておくべき事柄だった。

「(結局は他人、ということなのだろうな)」

 直枝幹も理樹の心配自体はしているのだろう。それが行動に結びついていないからといって責めるつもりはなかった。彼は既に守るべき者を、家族を腕いっぱいに抱え込んでいる。理樹は文字通り、彼にとって手に余る問題だったということだ。ならば、最初からその場の勢いだけ感情的に引き取るなどと言わなければ良かっただろうにと、泡のように呆れの感情が湧きあがる。が、それは実にあっさりと弾けた。

「(まぁ、私が言えることでもないが……)」

 過去、“あの世界”で独り善がりな行動を取ったことを、来ヶ谷は秘かに思い出した。




 彼は……理樹はリビングにいた。
 部屋の中央でカーペットの上にぽつねんと膝を抱えて、テレビを見ていた。バラエティなのか、仰々しい効果音や観客の笑い声などが流れているが、理樹は相変わらず無表情のままだった。そもそも、テレビ自体見ているかどうかも分からない。もし、消したとしても、何も変わらず真っ暗な画面を見続けるのではないだろうか。何も映さぬ、その暗い瞳で。来ヶ谷にはそれが酷く寂しい光景に見えて仕方がなかった。スーツケースを床に置き、理樹の傍に来ると正座した。傍に寄っても理樹は興味がないのか、テレビの方を向いたままだった。

「君が直枝君だな?」

 名前を呼んで数秒後、思い出したようにチラリと来ヶ谷を見やる。
 一瞥して相手が人間であると確認が済むと、興味を失くしたように視線をテレビに戻し、コクンと頷いた。

「理樹君、と呼んでもいいかな?」

 コクン、と再び首肯。
 無表情の理樹に、来ヶ谷はまるで首振り人形でも相手にしているような気分になってきた。

「私は……」

 名乗ろうとして、ふと考えた。
 このまま本名を名乗ってもいいものだろうか、と。この世界が過去ならば、理樹が高校生になった時に自分に出会うはずだ。その時、同姓同名の人物がいたら、不審に思うのではないだろうか? もしかすると歴史が変わってしまって、自分がいた未来が無くなってしまうかもしれない。いや、あるいは自分が介在した時点で、既に未来は変わってしまっていて、今の来ヶ谷がどう動こうが来ヶ谷がいた未来には、何ら影響を及ぼさないのだろうか……。
 確認のしようがない以上、来ヶ谷は念のため、己の名を改めることにした。そうだ。偽るのではなく、改めるのだ。

「私は――“理佐”と言うんだ」

 そう、名乗った。

「……理佐、さん?」
「そうだ。理佐さんだ。ちなみに字にするとこう書くんだ」

 近くのテーブルの上にあったメモ帳から一枚引き千切り、ペンで書き記す。

「最初の字……僕と一緒……」
「ハッハッハ、そうだな。お揃いだ」

 それもそのはずで、その名には来ヶ谷なりの意図が込められていた。来ヶ谷はアメリカでは、リズベスと呼ばれている。エリザベスの愛称だが、実はこの名前には他に数々の愛称がある。リズ、リーザ、ライザ、エルシー、リブ、エリザ、イライザ、ベス、ベティ、これらは全てエリザベスから派生した愛称だ。そして、リサもその中の一つだった。更に名は体を表すという古人の銘に従い、来ヶ谷はそれに理佐と漢字をあてがった。すなわち、“理樹をたすける者”と。


 この世界の“来ヶ谷唯湖”は、アメリカに存在しているだろう。
 ならば……今のここにいる自分は“理佐”だ。――理佐でいよう、そう心に決めた。





いつか気付くかな

written by ぴえろ




 最初の出会いから二日経とうとしているが、理樹は相変わらず無機質で暗い表情をしている。
 来ヶ谷も何かと話し掛けて入るのだが、結果は芳しくない。問いかけても、ハイやウンと返事が返ってくればいい方で、大体は頷くか首を振って意思の疎通をしている。理樹にとって両親を失った悲しみはそれほど深いものだったのだろう。こればかりは、結局は個人の力で乗り越える以外に無い。来ヶ谷にできることと言えば、それを手助けすることだけだ。
 しかし、如何に励まそうと、その言葉は理樹に届かないであろうことは来ヶ谷も分かっていた。来ヶ谷には両親を失うという経験もないし、また理樹との信頼関係もそれ程築けていない。そんな者が言った言葉など、葬儀の時、見知らぬ親戚から述べられる励ましの言葉と同様、気休めにすらならない。
 励ます者にはそれ相応の資格が求められる。今の来ヶ谷にはその資格がなかった。
 それは長期的に考えるべきことであり、当面の問題は他にあった。

「うーむ、またか……」

 目の前の惨状を見て、来ヶ谷は嘆いた。ポテト入りハンバーグとサラダ、水菜の胡麻和え、オムレツ、味噌汁……と言ったメニューだったが、その大半が残されている。

 まだ三日と経っていないが、来ヶ谷の家政婦ぶりは十分及第点に値するものだっただろう。初日こそ、衣服や下着、調理器具や皿の場所を把握するのでほぼ半日を費やしてしまったものの、二日目からの掃除、洗濯に関しては完璧である自負を抱いていた。が、炊事……理樹への食事に関しては嘆くばかりである。
 来ヶ谷にとって一番堪えたのは、自分の作った料理が残るということだった。理樹も年頃なので、食欲はあるのだろう。茶碗のご飯は平らげるのだが、おかずに関しては、ほんの少し手を付けるだけで大概残る。自分の味覚では、十分美味であるように感じるのだが、小学生にとっては違うのかもしれない。もしかすると長期間アメリカに居住していたせいで、味覚に関して大雑把になってしまったのだろうか。日本人は旨味(国際的にもUMAMIで通じる)という成分を発見した味に五月蠅い民族でもあるのだ。
 食事の団らんの際に、その辺りを直接、理樹に問うてみた所、こう言われた。

「お母さんのが美味しかった……」

 無邪気な言葉の刃に、ザクリと胸を抉られた。
 来ヶ谷も高校時代のいじめで舌に乗せたくもないような罵詈雑言を、書面などで間接的に浴びせられたことがあるが、そんなモノは理樹のその一言に比べれば、児戯に等しかった。

 考えてみれば、そう言われるのも仕方のないことだった。
 来ヶ谷がまともに料理をした機会と言えば、高校時代、暇を持て余した際にクドリャフカの家庭科部に寄って、手解きを受けていたぐらいのものである。それ相応の主婦歴を積んでいたであろう理樹の母には到底及ぶべくもなく、理樹からすれば食事のグレードが下がったと見られるのは必然だったと言える。

「明日、料理本でも買って、練習するか……」

 告別式は金曜日に行われ、土日を過ぎて、来ヶ谷の家政婦生活も三日目に突入しようとしている。
 昨日の土曜日は第二土曜のため、学校が休日だったものの、週明けの月曜日には学校が始まる。来ヶ谷はあまり朝が得意な方ではなく、高校時代は朝食を抜いていたが、小学生の理樹に同じライフスタイルを強要するわけにもいかないだろう。早起きをしなければ、とその日は早めに寝ることを決める。理樹が学校へ行けば、その間来ヶ谷は自由な時間が取れる。その間に調理の練習でもしよう。

 そんなことを考えていた。月曜日を迎えるまでは。


   ◆  ◆  ◆


 月曜日の朝は時計が鳴る前に起きた。早寝が功を奏したと言った所だった。
 超人的な所のある来ヶ谷とは言え、寝起きは極々一般的なものだ。視界はまどろんでいるし、思考は亀のように遅い。何気なく傍にある置き時計を見る。午前五時。アラームをセットした時間よりも大分早い。夜の闇は消え去ってはいないが随分と青々しくなり、雀が鳴いている。五分程、開ききれない半眼で、自分が寝ている和室の風景を眺めていた。多くの人がそうであるように、来ヶ谷も二度寝の誘惑に駆られたが、朝ご飯を作らねばならないという昨日の自分が残した決定事項を思い出した。まだ時間はあるじゃないか。大丈夫、アラームが鳴ってからでも起きるのは遅くないさ、と睡魔がそっと囁いてくるが、アラームが鳴って確実に起きられる保障など雀の涙ほどもない。同意するようにチュンチュンと雀の鳴き声が聞こえた。ああ、これは存外上手いこと言ったかもしれないなと馬鹿なことを考えながら、来ヶ谷は布団からゾンビのように這って抜け出した。寝起きから多大な気力が求められた。これから、これが続くのかと思うと少し気が重くなる。こんな日常を当然のようにこなす、世のお母さん方を今更ながら尊敬する来ヶ谷だった。

 来ヶ谷は一階にある和室の客間を寝床としていた。部外者である来ヶ谷が他の部屋で寝ることなどできるわけがない。
 廊下を通り、顔を洗おうと洗面所に向かおうとして――気づいた。

 ゴウンゴウンと機械音が鳴っている。聞き覚えがある音だった。確か洗面所にある洗濯機の音だなと気付くと、疑問が湧きあがる。来ヶ谷は昨日の夜、洗濯機を動かした覚えがない。タイマーをセットした記憶もない。動いているはずのない物が何故動いているのか。気になって、来ヶ谷は洗面所を覗きこんだ。

「……何をしているんだ? 理樹君?」

 そこには理樹がいた。まるで悪戯している最中を目撃されたように、ギョッとした様子で振り返る。驚きに丸くした目をおどおどと右へ左へと泳がせた。来ヶ谷は不思議そうにそれを眺めていたが、次第に理樹の目が潤みだし、唇を震わせ始める。

「ひっ……ひぐっ……」
「な、何故泣く!?」

 理樹は零れる涙を拭っていた。思わぬ事態に来ヶ谷の意識が急速に覚醒していく。

「な、なぁ、泣いてばかりでは分からんじゃないか。何があったかおねーさんに話してみないか?」

 問いかけても理樹は泣くばかりで事態の把握すらできない。来ヶ谷は理樹からの答えを聞くことを諦め、独力で事態の把握に努めた。洗濯機の中のパジャマと下着、そして、着替えた理樹の格好を見ると、意外に容易く真相へ辿り着く。

「おねしょ……してしまったのか?」

 確認のつもりだったが、それが追い打ちになってしまったらしい。
 理樹はその場でしゃがみ込んでしまった。来ヶ谷はそんな理樹を見て、哀れに思った。ありえない話ではなかった。心に掛るストレスは何からの形で体に表れる。緊張して心拍数が上がる等が良い例だ。両親に先立たれる。それは、この十歳前後の理樹にとってどれだけのストレスだろう。ナルコレプシーという心の病を患ってしまう程なのだ。ストレスで眠れず、睡眠リズムが乱れ、抗利尿ホルモンの分泌に影響して夜尿してしまうのも、別段、奇妙なことではなかった。

 今、理樹の胸裏は、情けなさや悔しさ、羞恥心で満ちているに違いない。
 十歳前後とは言え、男だ。夜尿してしまっただけでも耐え難いのに、その上、それを来ヶ谷のような妙齢の女性に後処理まで目撃されてしまった。これを恥辱に思わない方がどうかしている。

 来ヶ谷は理樹の正面に回り、両膝を床に着け、包み込むようにして抱きしめた。
 そして、可能な限り、優しく穏やかに、あやすように耳元で囁く。

「大丈夫だ。私はこんなことぐらいで君を嫌いになったりなんかしないよ。どんなことがあっても、私は君の味方だ。だから……大丈夫だ」

 何が大丈夫なのかは来ヶ谷にも分からない。ただ、どうしてもそれだけは伝えたかった。
 腕の中にある理樹の頭を撫でる。いつだったか……もうおぼろげにしか覚えていないが、それはかつて、高校生の理樹を後ろから抱きしめた時に感じた頬の感触と同じ気がした。理樹の震えと嗚咽が酷くなる。もっと泣けばいい。人は涙を流すことでしか、胸に込み上げる悲しみを減らすことができない生き物なのだから。

 そして、いつか……笑顔を見せて欲しい。ふと、来ヶ谷はそんなことを考えていた。


   ◆  ◆  ◆


 その日、理樹は学校を休んだ。
 いや、正確には、その日から学校に行かなくなったと言った方が正しい。不登校という状態である。尤も、不登校児童生徒とは、何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因や背景により、登校しない、あるいはしたくともできない状況にあるため、年間三十日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの、というのが文部省の定義であるため、理樹はまだ不登校していないことになる。
 だが、このままの状態が続けば、理樹は不登校児童生徒と認定されるだろう。

 しかし、来ヶ谷は、特に何もしなかった。
 一般的な日本の母親なら、どうにか学校に行けるように腐心するのだろうが、来ヶ谷は違う。そもそも、高校時代に数学の授業をサボタージュしていた来ヶ谷である。本人が行きたくないのであれば、行かなくても良いとさえ考えていた。
 そんな風に思わせた背景には、理樹からの歩み寄りもある。どうやら、三日目の早朝の一件で幾分か信頼を寄せてくれるようになったようだ。朝食が終わり、皿洗いをし始めた時、来ヶ谷はエプロンの端をクイクイと引っ張られた。

「理佐さん……手伝ってもいい?」

 そう言って、こちらを見上げる理樹を見た時、思わず抱きしめてしまいそうだった。実際、手がママレモンの泡にまみれてなければ、そうしていた。記憶の中にある高校生の理樹も中性的だったが、小学生の理樹は更に中性的で、可愛らしかった。しかし、それ以上にただの家政婦から一歩、関係が深くなったのが、実感できて嬉しかった。
 再登校の努力をしなかったのは、単に学校に理樹を取られたくなかっただけかも知れなかった。




 行きたくもない学校にわざわざ行く必要もないと来ヶ谷は考えていたが、それはつまり、勉強しなくても良いという風に考えてるわけではなかった。小学校で習得する読み書き計算は、あらゆる社会活動に必要な基本的スキルだ。それを疎かにするのは断じて理樹のためにはならない。よって、来ヶ谷は理樹とマンツーマンで勉強を教えていた。
 来ヶ谷はその日その日の授業を可能な限り、教師の代役として振る舞った。思いの他楽しかった。教室は一階のリビングだったり、理樹の部屋だったりしたし、図工や音楽などは全て家庭科になって、料理や洗濯の指導になったりしたが、そんなことは些細なことだ。教える側にしか分からないが、できる者とできない者を教えると、できる者の方が圧倒的に楽だ。高校生の理樹と小学生の理樹では、当然後者の方が大変だったが、『どう噛み砕いて言おうか』と悩むことすら楽しかったし、課題を達成した時の理樹の表情は素直に喜んでいて、見ているこちらも頬が綻んだ。

 特に算数の時は、高校時代に二人してサボタージュして、中庭で数学を教えていた時のことを思い出し、同じようにからかいながら、教えていた。教科書に書いてある例題を用いて理解させ、最後の復習として、計算ドリルを自力で解かせる。ドリルの右上の方に制限時間が設けてあったので、その通り、リビングの時計で時間を計る。しかし、ただ待っているのも暇だったので、来ヶ谷は何かと理樹にちょっかいを出していた。素直に反応する理樹が面白くて、幾度となく繰り返す。そうしている内に時間がどんどん過ぎていった。

「ほらほら、無駄話していると、理樹君のカステラが私のお腹に納まることになるぞ? 残り時間、後5分だ」
「わっ、理佐さん酷いよっ。え〜と、18.7+7.5は……点の後ろを足したら、12になるから、1繰り上がって……」

 ホクホクと湯気を上げるコーヒーとカステラ。それがご褒美だった。
 しばらく、机に頬杖をついて、理樹の横顔を眺める。ここ数日で明るくなったように見える。来ヶ谷はそれが嬉しかった。そして、こうも思う。ずっとこうしているのも、いいかもしれない……と。

 何日経っても相変わらず、記憶の方は何の進展もしていないが、そんなことは些細なことに思えた。そもそも、思い出して、未来に帰る方法が見つかったとして……どうするのだろう。ここでの日々は未来での暮らしなどより、余程充実していた。それに帰ったとしても――来ヶ谷は思い耽っていたが、ハッとして時計を見る。

「残り一〇秒だ。一〇……九……八……七……六」
「良しっ、できた! できたよ、理佐さ――って、あぁぁーっ! 僕のカステラが無いっ!?」

 机の上にあったはずのカステラは忽然と姿を消していた。あるのは食べカスの乗った皿とコーヒーだけだ。

「あぁ、すまない。あんまり美味しそうだったので、九秒の時点で私が食べてしまった。やれやれだな」
「やれやれなのはこっちだよ! 僕のカステラ返してよっ!」
「何っ。ぐちゃぐちゃに噛み潰されて、唾液と胃液でデロデロになったカステラがそんなに欲しいのか? まぁ、鳥や狼は一度口にした獲物を吐きだして、子供に与えると言うしな。私もその例に習うとするか。今、吐き出すからちょっと待ってくれ」

 二本指を口に突っ込み、えずこうとする。無論、ただのフリだった。

「そんなのいらないよっ! これじゃ一体何のためにドリル頑張ったんだろ……」
「フッフッフ。と見せかけて、背後から理樹君のカステラを出してみる」

 後ろ手に隠していた理樹のカステラを皿ごとスッと回して出す。

「えっ!? あれ? じゃあ、この皿は……?」
「それは私が食べた後の皿だ。計算に夢中になってる隙に取り換えただけだが、見事に気付かなかったな」
「はぁ……理佐さん、こんな子供みたいな悪戯して楽しいの?」
「何を言う。こんなに楽しい気分は久しくなっていないぞ? ヒャッホゥおもちゃな理樹君萌えーって感じだ」
「萌えって何なのさ。意味分かんないし。それより、早く僕のカステラ返してよ」
「そんなにカステラが恋しいのかね。私の料理が残るのは、こっそりオヤツ食べてるせいじゃなかろうな?」
「オヤツなんて食べてないよ。理佐さん、味覚変なんじゃない? この前のキムチとか異常に辛かったし」

 来ヶ谷が机にカステラを戻すと、理樹はそれをフォークで切り分け、突き刺して答える。
 最初の頃に比べると大分食べてくれるようになったが、それでも未だに何品か食い残される。単に理樹が嫌いな物をこっそり混ぜたのがバレてしまったり、キムチやもずくといった子供受けしない物を夕食に並べたせいもあるのだが。

「辛くないキムチなんて、甘くないアイスクリームのようなものだぞ。そんなキムチは子供の食べ物だ」
「理佐さん、僕子供……」
「フッ、そうだったな。理樹君はまだ毛も生えそろってない子供だったな」
「え、僕、髪の毛ならもうとっくに生えてるよ?」
「くっ、そんな無垢な反応されると、私が薄汚れた醜い存在に思えてくる……おねーさん、ショックだ」

 理樹が食べ終わり、少し上機嫌になった所を見計らって、来ヶ谷が少し嫌な問いをする。

「なぁ、理樹君。まだ学校に通う気はないのかね?」
「…………今は行きたくない」

 上機嫌な顔が曇っていき、伏せ目がちにそう言うと、そっぽを向いた。視線だけチラリと寄こして、今度は理樹から問い掛けられる。

「理佐さんは僕に行って欲しいの? 学校」
「いや、別段、私はキミに学校へ行くことを強要するつもりは毛頭ないよ」

 日本の憲法では、保護者は学齢期の人間を小中学校などに通学するように取り計らう就学義務があるとされているが、そもそも、戸籍そのものがない今の来ヶ谷がそれを律儀に守る必要もない。尤も、戸籍があったとて、それを遵守つもりなどなかったろうが。ただ、それでも思う。

「学校の友達に会いたいとか思わないのか? 寂しくはないのか?」

 あまり真っ当な人間ではない私なんかとだけ居て、とは付け加えなかった。

「別に寂しくなんかないよ。今は……理佐さんがいるし」

 来ヶ谷はそれに対して、そうかとしか答えられなかった。
 頼ってくれている。それは嬉しいが……何か違う気がする。弱った雛鳥は母鳥が守ってやらねば死んでしまうだろう。だが、元気になれば、やはり目指すべきなのだ。果てしない青空を。そのために飛ぶ練習をすれば、つまづいて傷つくこともあるだろう。だが、その痛みを恐れて、飛ぶ練習を怠る者が力強く飛翔するわけがない。

 ――このままでいいのだろうか……このまま二人だけで過ごすのは、正しいことなのだろうか。

 来ヶ谷は心安い日々を過ごしながら、一方、心底に不安という汚泥が積もっていくのを感じていた。
 そんな来ヶ谷の元に一報の電話が鳴り響いた。橋本という理樹の担任からの電話だった。


   ◆  ◆  ◆


 翌日、来ヶ谷は理樹の通う小学校へ向かった。
 担任からの電話は、ここ数日、休んでいる理樹の様子を気にしてのものだった。来ヶ谷はその説明のために学校へ赴いたのだ。学校側には理樹との関係は年の離れた従姉弟ということにした。
 聞かれたことは平凡なもので、理樹の様子はどうであるかというものだった。来ヶ谷は包み隠さず伝えた。落ち込んでいたが大分よくなってきている。その内、学校にも通うようになるのではないかと。それを聞いて、教師はホッとした様子だった。それが、学校の面子によるものなのか、橋本なる女性教師の人格によるものからだったのかは分からなかった。

「実はこういうものがございまして……これも今の直枝君の状態に関係しているのではないかと思っていたんです」
「これは……」
「はい、授業参観のお知らせです」

 机の上を滑ってきたプリントをまじまじと見る。堅苦しい前文の後、日時や注意事項が記載されている。それによると。

「一週間後ですか?」
「はい。それで……なのですが、どうでしょう。当日、理佐さんがお越しになることはできませんか?」
「私が、ですか?」
「私が小学生だった頃は、普段、学校に来ない両親が授業を見に来ると嬉しいような、でも、恥ずかしいから来て欲しくない様な二律背反な気分になったものです。それが授業参観というものです。きっと理樹君もそんな気分だったことでしょう。でも、彼の両親は……」

 そこまで言うと担任は言葉を濁した。
 学校が悪いわけではない。ただタイミングが悪かっただけなのだろう。来ヶ谷は出会った頃と同じか、それ以上に理樹が不憫に思えた。きっと楽しみにしていたんだろう、周りの子と同じように。参観日当時は嬉しいような恥ずかしいような気分で席に座って、プラプラと足を振って、チラチラと後ろ振り返って、授業開始時間が近づいても来てないと不安になってきて、でも、間に合ってホッとして、授業が始まれば、いつもより多く、誰よりも速く手を上げたりしたのだろう。

 ――何も起きなければ。両親が生きてさえいれば。

 理樹が学校へ行きたがらない理由はここにあるのかもしれない。
 全校で行われるとしても、年に数回行われるし、運動会などに比べれば、それほど大した行事ではない。だが、もう残り一週間だ。今、教室ではそれらしき会話が行われていることだろう。なぁ、お前ん家、誰が来んの。んー、多分、お母さんかなぁ。いいよなぁ、お前ん家のおばさん美人だもんなぁ。そんなの余所行き用に化粧したりしてるからだって、家じゃみっともないんだぜ。そういった些細な日常会話を耳にする度、理樹は両親を亡くした現実と向き合わされるに違いない。そして、その度に傷つくのだろう。

 どうして理樹ばかりにこんな過酷が訪れるのだろう。
 もっと……なるべきだ。彼はもっとなるべきなのだ。そう、もっと――“幸せ”になるべきだ。

「当日は、私が行きます」

 気が付けば、来ヶ谷はそう口にしていた。理樹のためにできることは全てしてやりたかった。




 帰り際、来ヶ谷は妄想していた。
 渡り廊下で、階段で、昇降口で。浮かれた笑みを振りまいていたが、見た者は誰もいなかった。そもそも、既に放課後を迎えているので、人の姿そのものがなかった。西日の眩しさにサングラスを掛ける。ここ数日の暮らしの中で買った物だ。黒ずくめの来ヶ谷が掛けると秘密諜報員のようでもある。
 授業参観のことを理樹に知らせるか迷う。帰ってすぐに伝えるのもいいが、どうせなら、当日まで隠しておくのもいいのではないだろうか。そして、当日の朝に言うのだ。理樹君、今日は授業参観の日だろう。え、どうして理佐さん知ってるの。はっはっは、おねーさんに分からないことなんて無いのさ。でも、どうせ誰も来ないし、行っても意味無いよ。うむ、それは寂しいな。良かろう、おねーさんが行ってやろうじゃないか。ホントっ、やったーっ。
 一部の隙もない完璧な作戦のように思えた。そして、それ以降理樹は再び学校に通うようになるのだ。それは少し寂しくはあるが、今の状態の方が不自然なのだから仕方がない。学校へ通えば、友達もできるだろう。やはり、あの年頃なら同年代の友達はいるべきだ。なぁ、今日直枝ん家の奇麗なおねーさんに会いに行こうぜなどとキッカケになって――そこでハッとした。とても大事なことを思い出した。否、思い至った。
 昇降口でスリッパからハイヒールに履き替え、一歩踏み出した時だった。

「ぬぉぉぉぉぉぉーっ! また外したぁぁぁぁぁぁぁーっ!」

 放課後の校庭に響き渡る雄叫び。それは高校時代、毎日のように聞いていたものによく似ていた。記憶のそれより、幾分か高い。振り返る。校庭の隅、サッカーのゴールポスト付近に四つの人影があった。

 ――嗚呼、考えてみれば当然だ……。幼い理樹君がいるんだ。なら、彼らも居ない方が不自然じゃないか。

 来ヶ谷は彼らの元へ――リトルバスターズの元へと足を運んだ。気が付けば、懐かしさと憧憬に目を細めていた。




「やぁ、キミたち、何をしているんだ?」

 ゴールポストから離れて見ていた少年に声をかけた。
 近くまで来るとはっきり分かる。この少年は間違いなく、棗恭介だ。この時分はまだ彼が一番身長が高かったのだろう。そして、来ヶ谷の声に驚いて、サッと恭介の背後に隠れた男子のような女子が棗鈴。来ヶ谷が知っている頃とは髪型が違うが、おずおずとこちらを窺っている目を見て確信する。目元は高校生の頃と遜色なかった。

「何って……見ての通り、PK勝負だけど」

 ゴールポストの方に目をやる。小学生らしからぬ冷めた表情で、ボールの位置を足で直しているのが宮沢謙吾、そして、対するように中腰に構えてキッカーを睨みつけているのが井ノ原真人。高校生になれば、見上げる位置に顔があった二人も、この頃では来ヶ谷の胸元もない。特に袴姿でない謙吾は目新しく見えた。過去の世界の方が、目新しいとはこれもまた奇妙な話だった。

「単なるPK勝負じゃねぇ! これは明日のコッペパンを賭けたPK10本勝負。略して、コッペパンPK10本勝負だ!」
「――見えたっ、隙有り!」

 バシュッ!

「って、こら待て、謙吾! てめぇ、人が喋ってる時にゴール決めてんじゃねぇーよ!」
「真剣勝負の最中に余所見したお前が悪い。しかも、今“略して”って言ったが、あんまり略せてないぞ」
「チクショー! ……へっ、まぁいい。こっからオレの大反撃を見せてやるぜ」
「ちなみに今ので6−0だから、お前、もう負け確定だぞ」
「え、マジで? じゃあ、あれは? 次の1点が7点になるとか、そういうアタックチャンスは?」
「土下座したら、考えてやらんこともない」
「オネガイシマス、ケンゴサン。オレニ、アタックチャンスヲ、クダサイ」

 一瞬だけ、人格を喪失させて、その場で土下座する真人。

「流石は真人だ。謙吾との勝負に負けることだけはライバルとしてプライドが許さねぇんだな……」
「むしろ、たった今、そのプライドをかなぐり捨てたんじゃないのか。馬鹿だろ、こいつ」
「まさか、本当に土下座するとはな。――だが、断る」
「謙吾てめぇーっ! さっき、土下座したらアタックチャンス認めるっつったろーが!」
「考えやると言ったんだ。確約はしてない。ちなみにさっきの勝負が一生のお願いで認めた泣きの一回だったんだがな」
「え、そうだっけ? じゃあ、今度は鈴の一生のお願いで頼むっ!」
「勝手にあたしの一生のお願い使うなやコラーっ!」

 鈴のハイキックが唸る。ズゴンと鈍い打撃音が鳴り響いた。

「うぅ、オレのコッペパンがぁぁぁー! 明日学校休む……。コッペパンがねぇ学校なんて意味ねぇーよ」
「真人はコッペパンが好きだなぁ。蹴り足に出てたぜっ!」
「あぁ……コッペパンに出会えなかった人生なんて考えられねぇ……。それぐらいだ!」

 ゲシっと謙吾が真人の尻を蹴った。

「っ痛てぇな! 何でケツキックなんだよ!」
「いや、何故か今、自分でも訳が分からんぐらい腹が立ってな」
「成程、そりゃ仕方がねぇ。なぁんて言うとでも思ったかバーカ!」

 ゲシッ!

「ケツキックセカンッ!? だから、何でだよっ!?」
「さぁ、何でだろうな。自分の竹刀を無断で使われた時のような不快感で胸がいっぱいになったんだ」
「何だよそりゃ! そんな訳分かんねぇ理由でケツ蹴られまくったのかよ、オレは!」
「あぁ、そうだ。こうしよう。後、10回程ケツキックさせてくれるなら、泣きの二回目を認めてやろう」
「え、マジで? チッ、屈辱だが、ここはオレのケツを謙吾に差し出すしかねぇのか……」
「その部分だけ聞くと、恐ろしく問題発言に聞こえるぜ……」
「そこはかとなくエロいオーラを感じるな」

 来ヶ谷は呆れたように半眼で彼らの様子を見ていた。まさかとは思っていたが、高校時代と全く変わらない馬鹿さ加減だった。しかし、同時に得心する。この馬鹿騒ぎの中にあれば、どんな悲しみだって癒えるに違いない。
 今のままでも理樹は大丈夫だろう。だが、それは来ヶ谷が守ってやっているからに過ぎない。狭い世界での幸福でしかない。それでは他を拒絶し、自己の世界に引き籠ったのと然程変わらない。理樹が自ら強くなろうとするには絶対的に必要だったのだろう――彼らの存在が。

「ふむ、小学生にしてはやるが、まだまだだな」

 そして、来ヶ谷は彼らに勝負を持ちかけた。




 流石にハイヒールでサッカーはできないので、恭介が職員の下駄箱から来ヶ谷と同サイズのシューズを無断借用してくることになった。その間に勝負内容の説明をした。勝負内容は以下のようなものだった。
 まず、来ヶ谷がキーパーとなり、リトルバスターズの面々が先攻で一人ずつ蹴る。一般的なPK戦である。ただし、一点でも取られたら、その時点で来ヶ谷の敗北。リトルバスターズの面々が蹴り終えたら、次に来ヶ谷が蹴る。が、こちらはPKではなく、コーナーキックだ。キーパー一人にDFディフェンダーが三人。それでゴール決まれば、来ヶ谷の勝利。外せば、もう一度、リトルバスターズのPK戦からやり直し、というものだった。圧倒的に来ヶ谷に不利な条件だったが、それは来ヶ谷が勝利した場合、“何でも言うことを一つ聞く”という報酬の大きさからだと説明する。
 帰ってきた恭介に謙吾が伝え、同意を得る。それでリトルバスターズの全員の承諾が取れた。

「へっ、最初はオレだ。見てろ、一発で決めてやるぜ!」
「いや、一発しか蹴れんぞ?」
「うっせぇぞ、謙吾! 細けぇこと言ってんじゃねぇよ! うぉぉぉぉりゃぁぁぁぁぁーっ!」

 助走をたっぷり付けたキッキング。パワーとスピードは確かにあったが、狙いはキーパーのど真ん中。同じ小学生なら、弾いてこぼれ球になるか、怯えて避けそうな球だったが。

「フッ、甘いな」

 来ヶ谷は簡単に受け止めて見せる。しかも、突き伸ばした片手で。

「マ、マジかよ。オレの全力シュートがいとも簡単に……! き、筋肉が足りなかったか……」
「お前はパワーに頼り過ぎてて、狙いが雑なんだ。次、俺だから、さっさとどけ」
「チッ、クソっ! 謙吾、てめぇも外せバーカバーカ!」
「お前ら、味方同士で喧嘩すんなよ」

 そして、次に謙吾。数歩分助走を付けて右足で蹴る。素人が球を蹴ると、蹴り足と逆に飛びがちなものだが、運動センス自体が良いのだろう。巧みに足の甲のアウトサイドで蹴っていた。球は地を這うような弾道で、コースは右下、ポールのギリギリ内側に飛ぶ。しかし、来ヶ谷の俊足には敵わなかった。瞬時に右端へ移動し、向かってくる球を踏んで止める。

「さて、これで早くも二人セーブだな」
「馬鹿な……あのコースの球を踏み止めるだとっ!? 身のこなしが素早過ぎる……」
「っんだよ。てめぇも外してるじゃねぇか」
「あの女があんなに速く動けるとは思わなかったんだ!」
「だから、喧嘩すんなって。次は鈴、お前だ。決めてきなっ!」
「……分かった。任せろ」

 ボールを置いて、トテトテ歩いて少し距離を取る。ダッシュで助走をつけ、そして……。

「とりゃーっ!」
「む、これはっ!?」

 流石の来ヶ谷もその球は取れなかった。

「どうだ。取られなかったぞ。馬鹿二人とはわけが違う」
「いや、どうだと言われてもなぁ……」
「まるでゴールを決めたみてぇに言うんじゃねぇよ。野球じゃねぇんだぞ。ホームランじゃ点は入らねぇーよ」

 鈴の蹴った球はゴールポストを越えて、遥か彼方へと飛んでいってしまった。
 来ヶ谷も元から外れていく球は取れない。その必要性もまるでない。

「うっさいボケー! サッカーなんてやったことないのにできてたまるかっ! 真人、ボールはお前がとって来い!」
「逆ギレかよっ! しかも何でオレなんだよっ!」

 ブツクサ文句を言いながら、最初に決められず、この雰囲気を作ったことに責任を感じているのか、取りに行った。

「やれやれ、どうやら俺が決めるっきゃねぇみてぇだな!」

 そして、最後に恭介。
 真人が置いたボールから助走の距離を取る。しかし、すぐに蹴るような真似はせず、片足で球を踏んだまま、一度腰に両手を添えて、来ヶ谷を見る。PK戦が蹴る側に圧倒的に有利なのを知っている余裕だった。なるほど、恭介氏らしいと来ヶ谷がフッと小さく笑みを零す。来ヶ谷は前三人の時は、両腕を組んで待っていたが、恭介の時はそれを解いて、中腰で構えた。小さくとも棗恭介。負けるとは思わないが、油断で万が一ということもある。同じ余裕でいるのは危い。

「そういや、アンタの名前聞いてなかったな。何て言うんだ? 俺は――」
「知っている。棗恭介、だろう? そして、そっちにいるのが、棗鈴、宮沢謙吾、井ノ原真人」
「あれ? 俺ら名乗ったっけ?」
「キミたちは自分が有名人だと自覚した方がいいな」

 ふと、意図せず、出会った時と同じ言葉を言ってしまった。不味いことを言ってしまったかとも思うが、こんな些細なやり取りは記憶にも残らないだろうと思い直す。サングラスをかけていることも後押ししていた。

「私は通りすがりの美人なおねーさんだ、と言いたい所だが、理佐と言うんだ」
「なるほど、理佐さんね。挨拶代わりとしちゃ何だが、決めてやるぜ! 必殺ドライブシュートだぁぁっ!」

 恭介が加速し、球を蹴る。コースは左上の隅。コース、威力共に申し分なかったが……。

「(――所詮は小学生だなっ!)」

 横っ飛びに飛んでパンチングで弾く。球は外へ弾き出された。

「うぉぉぉーっ、恭介まで失敗しやがったっ! あのねぇーちゃん、強ぇぞ!?」
「というか、ドライブシュートと言う割には全然ドライブ回転かかってなかったが……」
「どうせ、また漫画の必殺シュート言ってみただけだろ。この前、何かオーバーヘッドシュートの練習してたぞ」
「俺が下手なんじゃねぇよ! 相手がS.G.G.Kスーパーグレートゴールキーパー並の守備力持ってたからだって!」




 リトルバスターズの攻撃が終了し、来ヶ谷の攻撃に移る。どのように蹴ろうか、顎に指を当て思案する。キーパーには真人が志願した。謙吾、鈴が猛反対したが、リーダーである恭介が別に良いじゃないかと許可してしまったので、決定した。真人が謙吾、鈴を安心させるように言う。

「任せな。オレには秘策がある。ただし、それには謙吾! お前の協力が欠かせねぇ……」
「また妙な作戦じゃないだろうな?」
「良いじゃないか。面白そうだ。謙吾、協力してやれよ」

 面白そうだというだけで許可する辺り、恭介はあまり勝敗にこだわっていないように見えるが違う。面白く、且つ勝利する。それが恭介の信条だ。一応、耳に入れておいて、あんまり不味そうな作戦なら考え直すつもりだった。真人が謙吾に耳打ちする。何度か頷いて、作戦を把握したのだろう。「何だとっ!?」と来ヶ谷は謙吾がそう言ったように聞こえた。それほどはっきりと聞こえたわけではないが、真人を見て、しかめっ面をしたので、信憑性は高い。
 そして、その作戦とは……

「見よっ! これぞ、友情合体! トーテムポールの術だぜっ!」

 ただ単にDFの謙吾がキーパーの真人を肩車するというものだった。

「とりあえず、戦隊物なのか、インディアンなのか、忍者なのかはっきりしてして欲しい所だな……」
「ハッ! 見ろよ。ヤッコさん、オレ達の必殺技の前に震え上がってるぜ! ハァーッハッハッハッハ!」
「お、おいコラ真人。お前そんな仰け反るな! バランスが――って、う、うぉぉぉぉぉぉーっ!」
「え、あれ? お、おい謙吾!? ちょ、お前ちゃんと持――あ、あ、あぁぁぁぁぁぁーっ!!」

 ドスンと土煙が盛大に巻き起こる。

「背中痛ぁぁぁーっ! 謙吾っ! てめぇ、ちゃんと持ってろよ!」
「俺のせいかっ! 元はと言えば、お前が仰け反りながら、馬鹿笑いしたせいだろうがっ! 言わば、自爆だっ!」
「くそ、謙吾の垂直落下式肩車落としがアホみてぇに効いてやがる……ちと動きが鈍くなるぜ、こりゃ」
「垂直落下式肩車落とし、か……ここに新たな必殺技が誕生した」
「仲間を必殺してたら意味無いけどな」
「真人、謙吾とキーパー変わんな。そのダメージでキーパー無理だろ」
「チッ、癪だが仕方がねぇ。点入れられたら、今度はてめぇをケツキックすっからな」
「フン、お前じゃないんだ。俺がそんなヘマするか」

 憎まれ口を叩きながら、謙吾がゴールポスト中央に陣取る。
 その間に来ヶ谷は真人の行動に疑問符が浮かび上がった。真人は馬鹿ではあるが、それは人に比べて、発想が突拍子ないだけで、理の無い行動をするような人間ではない。肩車……二人が縦に並ぶ。身長が伸びる。来ヶ谷は「あぁ」と頷いた。おそらく、目的も狙いも本当にそれだけのことなんだろう。身長を伸ばして、強固な制空権を確立したい。それが真人がしたかったことなんだろう。手段は馬鹿馬鹿しいが、中々理に適っている。

「もう蹴っていいか?」
「あぁ、どうぞ! かかってきな!」
「なら、行くぞっ! フハハハ、覚悟するがいい!」

 実の所、来ヶ谷の狙いも高さにあったのだから。
 高校生の彼らなら、いざ知らず、小学生の彼らでは、ジャンプしてゴールポストの上のバーに触れるのがせいぜいで、斜め上の部分までカバーするのは不可能だろう。確実に点を取るならそこを狙うのがベストだ。が、コーナーキックで直接狙うには、針の穴を通すような集中力が求められる。一般の小学生に比べて、リトルバスターズの面々は身体能力がかなり高い方だ。僅かでも狙いがズレれば、簡単に弾かれかねない。
 先ほどのシュートも素手で弾いたり、受け止めると相当痛かった。そう、何度もしたくない。

「(このシュートが、最初で最後だ!)」

 数歩助走を付ける。左腕を大きく振って遠心力をつけ、軸となる左足をボールの脇に突き立てる。スパイクが無い分、固定が緩い。砂で滑らないように留意しながら、右足を鞭のようにしならせ、振るう。溜め込んだ運動エネルギーが球で炸裂。手応えは十分だった。球は緩やかなカーブを描きながら、高速でゴールを目指す。

「(――届くっ!)」

 上空から弧を描いて落ちてくるボールはさながら、獲物を見つけた燕のようだった。軌道を予測。このままなら、真上を通過してゴールに入る。高所から来るそれは、鈴や恭介のヘッディングでは届かない。だが、自分なら手を伸ばせば、かろじて届く。そう信じて、謙吾は真上にジャンプした。――が、しかし。

  ガコッ!

「「(なっ――!)」」

 それは双方にとって誤算だった。
 球が上のバーに当たる。ただし、球の頭を叩く形で。球は嫌われるように弾かれながらも、プロ野球選手の投げたフォークのように急降下する。

「あん? ――ぶぇっ!」

 その先にいたのは、真人だった。
 真人の顔面を強かに打った球は更に反動で跳ね返り、地面にワンバウンドした後、ゴールネットを揺らした。

「ぐぉぉぉーっ! 鼻っ柱がエライことに――って、ボールがゴールに入ってるじゃねぇかぁぁぁっ!」
「「お前が入れたんだっ!」」

 謙吾と鈴が二人して、涙目の戦犯を指さす。目が潤んでいるのは鼻を強打したからであって、心理的な物によるものではない。少なくとも、後日真人はそう主張していた。

「まぁ、今のは事故みたいなもんだろ。しかし、顔面で決めるとはな。キャプ翼の石崎君もビックリの離れ業だぜ」
「いや、あいつの得意技は顔面ブロックじゃなかったか? 顔面シュートはできなかったと思うが?」
「そりゃ何か? つまり、オレは小学四年生にして、石崎君を超えたということか? スゲェな、オレ……」
「お前馬鹿だろ。自殺点だぞ。むしろ、ただの顔面ブロック失敗じゃないか」
「はぁぁぁぁーっ! しまったぁぁぁーっ! オレは石崎君を超えられなかったぁぁぁーっ!」

 負けても騒がしいリトルバスターズの面々に来ヶ谷が近づく。

「さて、私の勝ちなわけだが……約束は覚えているかな?」
「あぁ、“何でも言うことを一つ聞く”だろ? 忘れちゃいないぜ」
「何でもするって、駄菓子屋のお菓子をくすねるとかでもしなきゃダメなのか?」
「流石にそういった類のことは、俺は絶対にせんぞ。罰ゲームレベルまでなら聞こう」
「罰ゲームだと……何だ? ケツでも差し出せばいいのか?」
ブチ殺すぞ、筋肉マッスル

 来ヶ谷はギランと暗い瞳に殺意を滲ませた。

「安心したまえ。ただ一人、仲間に入れてあげて欲しい子がいてね。その子は今一人なんだ。キミ達のような同い年の友達がいると、学校も楽しくなると思うんだ。どうだろう、仲間に入れてあげてくれないだろうか?」
「何だ。そんなことか。いいんじゃないのか? 仲間なら、俺たちはいつだって歓迎するぜ!」
「……うぅ、一体どんな奴なんだ? 嫌な奴じゃないか?」
「まぁ、余程反りが合わない奴なら、仲間にしなければいいだけじゃないか」
「つか、そんぐらいのことなら、わざわざ勝負しなくても良かったんじゃね?」

 確かに真人の言う通りだった。この程度のことなら、十分お願いの範囲内で済む。勝負までして命令権を得る必要はなかっただろう。そこの所は、大した理由はなく、来ヶ谷の衝動的な……『楽』の感情からの思いつきと言っていい。そう、ただ来ヶ谷は遊んでみたかったのだ。幼い日の彼らと。

「ふむ、では、約束の儀式として指切りげんまんでもするか。ほれ、さっさと小指を出せ。リトル恭介氏」
「あぁ、いいぜ。って、リトル恭介氏って何だよ!」
「まぁ、気にするな。戯言だ」

 来ヶ谷が恭介の小指と自分の小指を絡める。

「ゆ〜び〜き〜り〜げ〜ん〜ま〜ん♪ う〜そ〜つ〜い〜た〜ら――両手五指の爪を引き剥がし指一本一本を五寸刻みに切断して耳と鼻と唇を削ぎ落とし目ん玉両方ともくり貫いて歯も全てペンチでへし折り力限り貴様を金属バットで殴り倒して骨と言う骨を砕いて血袋にした挙句最後は五体バラバラにノコギリで解体し削ぎ取ったパーツも一緒にミキサーかけて血とアミノ酸の混合物と化した貴様を公衆便所でゴミのようにな〜がすっ♪ 指切った♪」

 理樹のことが絡むせいか、来ヶ谷は割と本気の殺意を漏らしていた。

「…………なぁ、恭介。おめぇ今、魔王か何かと契約しちまったんじゃね?」
「あ、あぁ……俺も何かそんな気がしてきたぜ……」
「まぁ、万が一の場合、骨ぐらいは拾ってやろう。あ、ミキサーにかけられて無くなってるか……」
「恐ッ! こいつ恐ッ!」

 こうして、来ヶ谷との約束はリトルバスターズの面々の脳裏に刻まれた。恐怖とともに。

「(それにしても……)」

 先ほどのキック。結果的にゴールになったが、来ヶ谷が思い描いていたゴールとは違った。来ヶ谷のイメージではバーに当たることなく、吸い込まれるように入るはずだった。トントンとつま先を鳴らす。他人の運動靴で蹴ったせいかなと思ったが、元より真っ当なサッカーシューズなど履いたことなどない。サイズも合っていたし、それほど差が出るとは考えにくかった。まさか年のせいだろうか。まだ二十代で若いが、十代の時のような振舞いは通用しないと証明されてしまったようで、来ヶ谷は少し鬱になりそうだった。


   ◆  ◆  ◆


 来ヶ谷は一度唇を舐めた。
 そして、夕食の席で、テレビの方を見ながら、何でもないことのように言った。

「そう言えば、もうすぐ授業参観日があるそうじゃないか」

 理樹の肩がピクリと震えた気配がした。視線はテレビの方に向いていたが、その他は全て理樹の挙動に注いでいたので知覚することが出来た。やはり、そうなのだ。イジメられてるわけでもなく、勉強についていけないわけでもない。学校で感じる孤独が嫌なのだろう。両親を失った痛みを繰り返すのが嫌なのだろう。

「理樹君、少し真面目な話をしてもいいだろうか」

 来ヶ谷は茶碗と箸を置いて、理樹を真っ直ぐ見据えた。理樹もシャンと背筋を伸ばした来ヶ谷に、茶化すことのできない真摯な雰囲気を察してか、同じく箸を置いた。

「なぁ、理樹君。私はこう思うんだ。家族……という言葉には二つの意味があるんじゃないだろうかって。一つは血の繋がりを示すもの、もう一つは暮らしを共にする者と言う意味だ。普通は両者が伴うのだろうが、後者だけでも成立するケースもあると思う。血の繋がりが家族の必須条件じゃないと思うんだ。で、だ。それを踏まえた上で聞いて欲しいんだが……授業参観というのは、その、家族が行くものだろう。と言うことはだな。授業参観に行くには必ずしも血の繋がりのある者にしか資格がないというわけではなくて……」

 来ヶ谷は自分が何を言おうとしているのか、まるで分からなくなりつつあった。
 伝えたいことは非常に単純なものであるにも関わらず、正当性を求めたり、理屈で説明しようとすると恐ろしく困難だった。これでは駄目だと来ヶ谷は思った。先程から理樹は不思議そうに眉を寄せて、小首を傾げている。そもそも、それは誰のための理屈なのだろう。理樹のため? 違う。子供の理樹に話すのなら、このような小難しい理屈など必要ない。それはきっと……来ヶ谷自身のための理屈だった。

「うん……要するに、だ」

 コホンと一度咳払いし、仕切り直す。
 勇気が必要だった。ありのままの気持ちを告げる勇気が。

「理樹君の参観日……私が行ってもいいだろうか?」

 それを受けて理樹は黙り込んだ。軽く俯くと、少し長めの前髪が顔に掛かった。
 ちらちらとその奥から、上目遣いに来ヶ谷を伺う。もごもごと口が動く。何度かはっきり口を開こうとして、その度に閉じた。事の是非は恥ずかしげな態度で何処となく、察していた。が、どうしても言葉として聞きたかった。来ヶ谷は優しく見守りながら待ち続ける。テレビの音が五月蠅い。先ほどからニュースキャスターが深刻そうに速報を伝えている。しかし、そんなものは耳に入らない。世界のことなどどうでも良かった。知りたいのは、理樹の気持ちだけ。聞きたいのは、理樹の言葉だけだった。

「もし、理佐さんが授業参観に来てくれたら……きっと僕すごく自慢できるね。理佐さん、美人だから」

 それはある種、性的な恍惚感に似た喜びだった。霜焼けがかった手を湯につけた時のように、むず痒さを伴いながら、ジワジワと体に広がっていく多幸感。そんな感覚に酔いしれていたせいか、上擦る声が出てしまう。

「あ、あぁ……そうだな。そうだとも! 美人の上、しかも、若いからな! 他の母親なんて目じゃないぞ、きっと!」

 参観日には何を着ていこうか。オーソドックスにスーツでいいだろうか。なら、クリーニングに出しておかなければ。いや、いっそのこと新調してしまおうか。理樹の伯父、直枝幹からの日給もある。それで、少し化粧品にこだわってみようか。いや、普段あまり化粧しない自分が当日に限って張り切ると、かえって失敗してしまうかもしれない。そんな風に思い悩むことすら楽しかった。今からこれならば、当日はどうなってしまうのだろう。来ヶ谷は理樹以上に参観日を楽しみにしていたかもしれなかった。



そして、しかし、それは突然やって来た。



『昨晩午後十一時頃、○○県の××空港に着陸した△△発の日本エアコミューター(JAC)3445便サーブ212Cが、滑走路をオーバーランして車輪が破損し、機体が大破しました。それではここで、現場の状況を聞いてみましょう。森下さん、聞こえますか? 森下さん?』

 話も一段落して、意識をテレビに向けると丁度、画面が切り替わる所だった。マイクを持った男性レポーターが硬い表情で立っていた。一言二言、受け答えすると紹介するように、一か所に向かって手を向ける。カメラがそちらにズームアップする。まだ救助活動がされているため、取材陣は近づけないのだろう。遠くからの撮影だった。巻きあがる黒煙で、機体はほとんど見えない。時折、チロチロと見える橙色の明かりが今尚激しく燃え上がっていることを証明している。消防車の赤色灯が幾つもぐるぐると回り、ホースから水を吐きだして鎮火に励んでいた。炎とヘリのライトを受けて、せわしく動き回る小さな人影が幾人も浮かび上がっていた。

「――っ!?」

 それを知覚した時、来ヶ谷は目を剥いた。直後、心臓が握り潰されるような痛みを感じた。胸を手で押えこむ。背中はカッと熱くなってくるのに、胃の底がヒリヒリと冷たい。冷汗が次から次に浮かび上がり、珠のようになってこめかみを伝う。来ヶ谷はとうとう姿勢を保っていられず、椅子から落ちて、床に倒れこんだ。気道が狭窄したように息が苦しい。激痛に苛みながら、考える。これは、この痛みは何なのか? 心筋梗塞? いや、違う。これはきっと……。

「理……ん……佐さ……! どう……た……の!?」

 肩を揺さぶられる。理樹の手だ。しかし、その声は遠い。昂ぶった心臓の音に紛れ込んでしまっていた。顔の輪郭もぼやけて見えた。まるで水中から理樹を見上げているようだった。断片的に聞こえる言葉の中に救急車という単語が出た瞬間、来ヶ谷は咄嗟に背を向けて駆け出そうとする理樹の足首を掴んだ。

「大……丈夫、だ。そんなに大仰なことはしなくていい……」

 でも! と理樹は言ったのだろう。実際に来ヶ谷には、そうはっきりと聞こえなかったが、短く叫ぶ言葉など多くはない。病院に担ぎ込まれて、戸籍がないことが発覚してしまうことを恐れたわけでもあるが、それ以上に来ヶ谷は理解していた。たとえ、どのような医者が来ようとも碌な処置などできるわけがない。今、来ヶ谷が感じている痛み。それはきっと――魂の痛みだから。

「理樹君……手を、私の手を握ってくれ……」

 蚊が囁くような声を漏らし、来ヶ谷が理樹へと震えた手を伸ばす。理樹は来ヶ谷の手を両手でぎゅっと力一杯包み込んだ。あんまり理樹が必死だったので、まるで死の淵に落ちる者の引き留めるようだなと来ヶ谷は苦笑いした。だが、実際、理樹の手に触れていると、痛みは潮が引くように遠ざかっていった。
 子供の手は暖かい。少し熱いくらいだ。高校生の来ヶ谷なら、代謝活動が活発で熱産生が促進されているからだと知識だけの頭でっかちな返答をしていただろう。だが、今なら違う。今はこう思う。

 ――それはきっと、生きる力に満ちているからだと。

 理樹の手から熱が……生きる力が自分に注がれているような気がした来ヶ谷は、ふとそんなことを考えた。

「しばらく……休んでいれば、大丈夫……だから」



それだけ言い残すと、来ヶ谷はそっと瞼を閉じた。

安心させたくて笑みを作ったが、何故だか涙が一筋、頬を伝った。

別れの時が近づいている。振り向けば肩を叩かれる、すぐそこまで。

確信めいた予感が、頭から離れなかった。




To be continued...



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 ぴえろの後書き

 ふぅ、こんなの書くだなんて言わなきゃ良かった。(ぉぃ
 明らかに中編でやっていい作品じゃなかった。\(^0^)/ 内容の展開が早過ぎると自分でも思います。こういうのはもっとじっくりやるべきなんですが、長編にすると自分、筆が止まるからなぁ……。ぶっちゃけ、付いてけない人は置いてくつもりで書いてます。書いてる側としては、今回のMVPは間違いなく真人。真人のおかげで後半大分楽しく書けたよ……。あー、後どうでもいい話ですが、姉御の『谷』って字が、再び、自分の中でゲシュタルト崩壊(同じ漢字を長時間注視していると、こんがらがって訳分からん状態になる現象)が起こり始めて、『ヒゲが生えたマンドクセ』に見えて参りました。いや、やっぱりカッコで囲むと絶対見えますって。

(谷)<ヒゲソリ マンドクセ

 「俺もそう見えてきたっ!」という方は、拍手でもどうぞ。