その日は、なかなか寝付けなかった。
 確かにあんな騒動があってあれほど疲れていたのに、よりによってまだ夜という時間に目覚めてしまった。

「寝るのが早すぎたか?」

 そう考えてはみるものの、あれほど疲れていた日は次の日の朝までぐっすり眠られるはずだ。体育祭の後とかがそうだったから間違いない。
 それなのに、俺は今、こうして起きている。

「ええい、くそ」

 もう一回目をつぶり、寝ようと努力する。しかし、一度醒めてしまった以上もう一度寝るのは至難の業だ。
 30分ぐらいして、俺は寝るのをあきらめる。どうせ明日は休みだ。学校に行く必要もないから夜更かししても大丈夫だろう。
 だが、そうなると今度はどうやって時間をつぶすかが問題になってくる。一度やり終えたゲームをやる気にはなれない。何度も読んだ本を再び読み直す気もない。
 仕方がないのでぼーっとする。すぐに飽きた。

「勉強でもするか……」

 口にはするものの、一向に動く気がしない。するかと言って動けるなら、誰だってそうしているはずだ。
――ふと、夜空を見上げてみる。真っ暗な、星空のよく見える夜だった。一番大きく見える月が気にならないぐらい綺麗な星空。
 しかし、それ以上に気になるものが見えた。木の上に浮かぶ人型のシルエット。
 正体を知りたいという怖いもの見たさでひっそりと部屋を出、靴を履いて外に出る。





 静かに、静かに夜の外を歩く。朝とはまるで別世界。全てのものが襲い掛かってくるような感覚。
 そして目的の木の前につく。暗さに大分慣れた眼で見上げると、そこには忘奈の姿があった。
 ただ、いつもの忘奈の雰囲気はない。見知らぬ人物を前にしているような恐怖。声をかけるのもはばかられる。

「あら、こんばんは」

 どうやら気付かれていたらしい。忘奈の方からこちらを向き、声をかけてくる。しかしいつもとは違い、どこか他人行儀。しかも何故か大人びて見える。

「……忘奈……なのか?」

 緊張した雰囲気の中、わかりきっていることなのに確認していた。

「ええ、そうよ」
「……はは、当然だよな。というか忘奈じゃなかったら何だってんだ……」
「でも、違う」
「えっ?」

 意味深な発言に困惑してしまう。忘奈なのに忘奈でない……?
 しかし、今日の俺は勘が冴えていたらしく、一瞬にしてどういうことか理解した。それで思い浮かぶことはただ一つ。

「二重人格……ってやつか」
「そう、私は忘奈であって、忘奈でない。そして……」

 そういうや否や、木の上に忘奈の姿はなくなる。気配すら感じられない。
 辺りを見渡すがどこにも姿はない。

「あなたを殺すことにも、何の意も介さない」

 背中の方で血の気が引くような感覚――恐怖を感じる。
 声がしたからだろうか、それとも今の忘奈が発している雰囲気からなのかはわからない。
 慌てて振り返る。忘奈の姿は確かにそこにある。
 しかし、俺は今忘奈をこれまでにないほど恐れている。

「ふふ……でも、殺さない」

 忘奈がクスリと笑みを浮かべた途端、何故か急に少し気が楽になった。
 これまで忘奈の気に気圧されていたということだろう。
 忘奈――いや、違う人格だからワスレナと俺の中では考えておこう。
 どうやら俺はワスレナに遊ばれているらしい。少しむっときたが黙っている。そんなことができないと体が言っているから。
 ワスレナが歩いて近づいてくる。

「もう1人の私は、あなたといることを望んでいるから」

 顎がぐいと引っ張られ、俺とワスレナの顔が近づく。少女らしくない、妖美な笑みを浮かべている。
 ひどく胸がドキドキする。
 待て、孝雄。相手は忘奈だぞ。
 自分に言い聞かせるが激しい鼓動は止まらない。
 そのまま、唇と唇が近づいてゆく……



『主殿!』



 外部からの声で我に返る。これは刹那の声だ。
 案の定、俺の前に刹那が青白い爪を出したまま現れた。ワスレナも殺気かなんかに気付いたのだろう、すばやくバックステップをとっていた。

「あら? どうしたのかしら」
「主殿をたぶらかしおって……何が目的だ!」
「目的なんてないわ。それに、別にどちらも嫌がってなんかいなかったわよ」

 ワスレナは殺気を向けられているというのに落ち着いている。むしろ挑発する余裕さえあるようだ。

「ふふ……私を愚弄するか、中身は違えども性質の悪さは一緒のようだな」

 刹那、お前忘奈のこと嫌ってるんだな。ちょっと悲しくなった。

「だが……お主よりもあちらの方が幾分かマシだと思うぞ」

 青白い爪から出る波動がさらに強くなる。どうやら気を高めたようだ。
 近くにいる俺もその気に押されて動けなくなる。

「あら、やるのかしら? ……そうね、あなたとならいい勝負ができそう」

 先ほどの気の重圧らしきものがまた重くのしかかってくる。
 ワスレナもどうやら殺る気満々のようだ。2人の気はその場に異質な雰囲気を出していた。

 これは、マズイ。

 俺の中の何かが訴えかける。知らず知らずのうちに口を開いていた。

「おっおい! ちょっと待てっつーの!!」

 重苦しい雰囲気の中、よく声を出せたものだ。自分のやったことに感心を覚える。
 一回口を開いたらこっちのもの。こんなことで2人を失いたくないという思い、そして俺のあまりに重苦しい環境における、ボケ魂とやらが俺の口を勝手に動かす。




「俺ちょっと腰抜かして動けないんだって! それなのに戦闘なんかしたら巻き込まれる!!」




 この発言を聞いた途端、ぽかんと口を開ける2人。
 俺自身言っててすごくへたれた台詞だなと思う。
 しかし、この2人を止められるんだったらどう思われようと構わなかった。

「……ぷっ、くすくす……あははははは!」

 ワスレナが腹を抱えて笑い出す。まあ、そこまでされるほど情けなかったし仕方がない。
 しかし先ほどワスレナが出していた殺気はなくなっていた。同様に刹那も気を消す。その証拠に青白い爪が消えていた。

「……笑うのは解せんが……確かに、主殿に被害が及ぶようであれば本末転倒だ。命拾いしたな」

 そういって刹那に抱きかかえられる。いや、俺本当は腰抜けてないんだけどね、あんま嫌な気はしないから口にしないでおこう。

「あなた、面白いわ。忘奈が気に入るのもわかる気がする。そんな台詞で殺気を消しちゃうなんてね」

 未だに腹をかかえている。どうやらまだ笑いが止まらないらしい。
 ちょっと変なこといいすぎたかなと思ったが、まあ結果オーライってやつだ。

「とりあえず命に関わる喧嘩はやめてくれ。それ以外だったら構わねえからよ」
「ええ、いいわ。約束してあげる。はぁ、こんなに笑ったのは久々ね」

 ワスレナもようやく笑い終わったらしい。ここまで笑ってくれると逆に少し複雑であったりもする。

「そりゃ何より」

 とりあえずそっけない返事を返しておく。

「ふふ、これはお・れ・い」

 チュッ

……なんてことだ、いつの間にか頬にキスされてしまった。

「なっきっ貴様ぁ!!」

 刹那も油断していたためか、一瞬の隙をつかれてしまったらしい。
 さっきとはなんか違った殺気を出している。これが嫉妬ってやつだろうか?

「ふふ、じゃあまたね」

 そう言うとワスレナは夜の闇に消えていった。多分、明日にはまた忘奈として遊びにくるのだろう。
 後には、キスされて呆然とする俺と、刹那だけが残った。

「おい、刹那。もうおろしていいぞ。腰治ったから」

 安心したところで、俺を抱きかかえている刹那におろすように言う。
 しかし、一向におろそうとはしてくれない。

「刹那、おろしてくれって」
「……主殿、無理しないでも今日は私が送り届ける」

 刹那、何か考えているような笑みを浮かべてそう口にした。というか、嫌な予感がする。

「えっ? 送り届けるってすぐそこなんだけど……」
「いや、今日は夜が明けるまでそばについておく。また何か再発したとき危ないのでな」

……もしかして刹那はわかっててやってるんじゃないだろうか。
 確かに先に嘘ついたのは俺だけどさ。それにさっきのに触発されたのもあるだろう。

「いや、そこまで面倒見なくていいって!!」
「大丈夫、それに主殿だって私と寝たこと何回もあるではないか」
「それは猫だったからで……」

 一応言い訳をしていくが無理だろう。どこか嬉しそうだし刹那。
 しかもゆっくり歩いて連れて行っているし、お前の速さだったらすぐつくじゃん。

「主殿」
「なっ何?」
「嘘をつくのはよくないと思うぞ」
「やっぱわかってる!?」

 今日の夜は最初から最後までとんでもなかった。こんな夜は金輪際こりごりだ。
 刹那に抱きかかえられながら、俺はそう思うのであった。



 ちなみに、その夜は別のことでなかなか寝付けなくなり、次の日は次の日でまたさんざんだったのはここだけの話。



つづく




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