彼女の立ち去る姿を見ながら、何故こんなことになっているのだろう、と彼は呆然と思いを巡らせた。
 事態はあまりにも急展開で、彼はその中心に居ながらも、まったくついていくことが出来ていなかった。さながら、ぽっかりと青空がのぞく台風の目にいるかのように。しかも、それは彼の人生経験から言っても最大級のものだ。
 彼は、自分がどちらかといえば鈍い人間であることは、まあ自覚はしていた。だが、それにしたって今の状況は異常だとしか思えなかった。
 ヒュウ、と夕暮れの風が吹く。空はとうに赤く染まっている。
 石垣の陰というのは、風を防いでくれて中庭の中では比較的温かい場所ではあるだろう。だが、やはり外であることに変わりはなく、そんなところにずっと立っていれば、体も冷える。
 もともと、今日と言う日は睡眠不足であった。ということは、身体の抵抗力も落ちているというものだろう。下手をすれば風邪でも引きかねないな、と鈍った頭でもわかった。
 昨日の放課後は、とても衝撃的な出来事があり、しばらくはそれで悩まされるだろう、こんな出来事はそうそうないだろう、と感じていたものだった。
 事実、その所為で眠ることが出来ずに、今日と言う日を迎えた。そして、その余波で学校でも色々と思い悩んだのだ。
 いや、まだ過去形ではない。思い悩んでいるのは、今もだ。
 ただ、さらに衝撃的な事実が積み重なったおかげで、最初の衝撃が薄れているだけだ。

「ああ、本当に――」

 何故、こんなことになっているのだろうか。誰か、真相を教えてください。それだけが、俺の望みです。
 もし今、最後の言葉を聞かれたら、きっとこんなふうに答えるかな、と虚ろに笑う。そして、これ以上ここにいるとまた何かが起こりそうな恐れを抱き、彼――岡崎朋也は、ふらふらと校舎へ向けて歩き出した。立て続けに起こった衝撃的な出来事と、自分の胸中のほとんどを占めることになった3人の女性の顔を思い浮かべながら。





 『想い、巡らし』 第四話





 まるで、時が止まってしまったかのようだ、と朋也は感じた。
 何故自分がここにいるのか、自分はここで何をしようとしていたのか、そういった簡単な事柄すら曖昧で、形をとることが出来なくなるような錯覚。
 そうして、ただただ目の前の彼女を見るだけだった。
 だがその彼女――坂上智代は、朋也がそんな世界に囚われてしまっているのとは裏腹に、目的を果たしたという清々しさがあった。
 恥ずかしさと、それを押しのけた勇気、その向こうに隠されている幾ばくかの悲しみ、それら全てを包む達成感、そうした感情で構成された顔を伏せて、智代は長く息を吐いた。

「ありがとう朋也、おかげですっきりした」

 顔を上げて礼を言うときには、もう笑顔だった。

「あ、ああ……」

 だが、対する朋也は未だに事態についていけない。こうもはっきり好意を言葉にされては、その衝撃は昨日とは比物にならない。ましてや、まったく無防備な方向からであればそれは仕方のないことだろう。

「古河には悪いことをしてしまったな……。できれば、お前のほうからもフォローしてやってほしい。それと……謝ることがひとつ。昨日、お前たちの中庭でのことを覗き見てしまった。すまない」
「……お、おう」

 朋也は生返事を返すことしかできない状態である。しかし、智代は朋也が回復するまで待つことはしなかった。


「では、今後とも良き友人として、よろしく頼む」

 一礼して、朋也の横を通りすぎる。
 朋也はそれを呼びとめることも出来ず、智代を見送った。



    ×     ×     ×



 古河渚は、言葉を失っていた。
 意図して行なっていたわけではなかった――が、だからといって、その行為が正当化されるわけではないということは、彼女自身良く分かっていた。
 朋也を探していて、中庭の隅のほうを歩く彼を発見した。それに追いつこうとして、近づいたところで話し声が聞こえたので、渚はとりあえず待つことにした。もし話が長引きそうであれば、出なおした方がいいかもしれないという考えもあってのことだ。
 だが、聞こえてきた内容は、決して立ち聞きしていいようなものではなかった。

「朋也。私は、お前のことが好きだ」

 顔を合わせた時間こそ少ないが、印象的な人物であったために、その声の主が誰であるか、渚にははっきりと分かった。
 そう、その人物は、昨日この中庭で朋也と抱き合っていた一ノ瀬ことみでは『ない』のだ。
 声の主――智代が、朋也の恋人に関して、どのような情報を持っているか、渚は知らない。だがことみの存在を知っていたにせよ、ほかに何か知っている事があったにせよ、断られる可能性を考えなかったはずは無かった。
 そのことが、渚を打ちのめした。
 しかし、だからといってここでショックを受けているわけにはいかない、と渚は気を持ち直す。告白の現場だと知ってしまった以上、さらに立ち聞きを続けるなどということは出来なかった。
 だが、渚の思惑とは裏腹に、智代は朋也の返答を聞く事もなく、早々に切り上げた。そして、渚がショックから立ち直った直後に、石垣の陰から出てくる。

「あ……」

 そこで、目が合った。

「あ、あのっ、ごめんなさいっ」

 深く深く、膝につかんばかりに渚は頭を下げる。智代はと言えば、渚がいたことに少しばかり呆然となっていたが、瞬時に状況を察し、一呼吸すると、晴れやかな笑顔を向けた。

「いや、そんなに謝る必要はない。聞かれてしまったのは確かに恥ずかしいが、古河になら聞いてもらって、むしろ良かったかもしれない」

 もし自分だったら、恋人が自分の知らないところで告白を受けていれば、やはり穏やかな気分ではいられないだろうからな、と智代は胸中で呟く。それが解っていながら、それでも告白を決行したのは智代自身のわがままであり、渚に対してはそのことを多少負い目にも感じていたのだ。

「え……あ、はい」

 渚は渚で、何故そんな事を言われるのか、と理由を考える。すると思い当たるのはやはり、自身の好意を朋也に知られているということだった。
 昼間の朋也の口ぶりからすれば、相手が恋愛感情を持っているかどうかを知る方法という質問は、智代にもぶつけたらしいことが解る。するとどうだ、自分と智代は、双方とも朋也のことが好きで、しかもそれを相手に知られてしまっている仲間ということになるではないか、と渚は思った。
 そうなれば、智代が何故「良かった」といったのか、渚にも想像がついた。要するに、それは後押しなのだろうと。告白することには勇気が必要で、相手に好意を知られていて友達でいようと暗に示されてしまえば、その障害はもはや難攻不落にもなる。何しろ、どうしたって負け戦なのだから。
 けれど、自身の胸の中に留まりつづけ、溢れてしまう想いは、もうどうにもならないものだった。それはきっと智代も同じで、彼女は告白を成し遂げるだけの勇気があったのだ。
 そうして、智代の笑顔を見る。それはとてもとても眩しくて、美しくて、尊いものだと渚は感じた。そして、憧れた。
 だから、自分も頑張ろうと、渚は思った。

「ありがとうございますっ」

 今度は感謝の気持ちをこめ、渚が頭を下げる。

「ん? ああ、いや気にするな」

 智代は、何の礼かと一瞬戸惑ったが、立ち聞きしてしまったことを不問にしたことか、とすぐに納得する。智代も渚と顔を合わせた時間は短くとも、渚が善良であることはよく理解していた。

「そうだ、私にも謝ることがある。昨日、お前たちの中庭でのことを覗き見てしまった。すまない」
「い、いえそんなっ。わたしは気にしていませんから。中庭を見るなんて、誰だってしますし」

 頭を下げる智代に、渚はわたわたと慌てて手を振った。
 智代が顔を上げる。

「では、わたしもいってきます」

 決意を込めて、渚は宣言をする。そうして石垣の陰へ入っていった。
 智代は、渚に対して一度だけ頷くと、空を見上げながら、その場を去っていった。



    ×     ×     ×



「……きさん、岡崎さん」
「……へ?」

 朋也が気がつくと、智代が先ほどまで立っていた場所とは逆方向に、渚の姿を見ることが出来た。
 智代の告白にどう答えようかと悩んでいた、いや、それ以前に智代から告白されるという衝撃的な事態の混乱から抜け出そうとしていた状態で、何故か『今後とも友人としてよろしく』といわれて去られるという、もはや何をどうすればいいのかわからない事態の余り呆然としていたことを、朋也は自覚する。
 自分は果たしてどれほど呆けていたのか、智代はなぜあんなことを言って、返事をする暇も与えずに去っていったのか、なぜ渚がここにいるのか、と今や朋也の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだった。

「あ、ああ、古河……えーと、どうした? なんか用なのか?」

 とりあえず、最も手軽に解決できそうな疑問として、渚に対して問いかけを行なう。
 しかし、それは朋也を更なる混乱に落とし入れる爆弾の、安全ピンを抜く行為だった。

「は、はいっ。岡崎さんに、伝えたいことがあります」

 顔を真っ赤にして、とても必死な様子が見て取れる渚。それはある種のシチュエーションを想起させた。

(い、いや……まさか、な……)

 すーはーと深呼吸する渚を見ながら、ありえない、と己のイメージを朋也は打ち消す。やがて渚は呼吸が整ったのか、決心が固まったのか、深呼吸を止めた。
 そして、目をぎゅっとつぶる。

「朋也くんっ」
「あ、ああ」

 名前を呼ばれたことにドキリとしながら、朋也が返事を返す。

「あ、ええと……」

 しかし、渚は一瞬困ったような顔になった。
 実のところ、今渚が朋也の名前を読んだのは、呼びかけたという意味ではない。自分が楽しみにしていることを唱えて自らを元気付け、目の前の困難に立ち向かうのは、渚なりのおまじないのようなものだ。
 だから、今のは呼びかけてはなく、夢のようなものだった。告白が成功し、恋人同士になり、朋也くん、と呼びかける夢。ことみの存在があって、それが叶うことはない、と渚は理解している。そもそもが、友人で居つづけるための告白であるが故に、その夢も、おまじないも、矛盾していた。
 だがせめて、告白するまでのわずかな間、渚は夢見たのだ。とてもとても、甘い夢を。勇気を振り絞って、現実を乗り越えるために。

「あの、朋也くん」
「ああ、どうした?」

 今度こそ、渚は朋也に対して、きちんと呼びかけた。
 朋也にも渚の緊張が伝わったのか、智代の告白の余韻もあり、ドキドキと心臓が高鳴る。
 そうして、渚が口を開いた。

「わたしは、朋也くんのことが好きです」



    ×     ×     ×




 そう言えば朋也に聞き忘れたことがある、と智代が気付いたのは、校舎へと戻ってからだった。
 すなわち、昨日の中庭での出来事の顛末である。
 自分の気持ちに一応の決着をつけた今となっては、それを明かにしたいと言う気持ちが野次馬根性であると見られても仕方のないことではあったが、一応友人の恋路を応援したいという気持ちでもあった。
 もっとも、そうはいっても部外者である自分が首を突っ込むことではない、と智代は思っていたのだが――

「あれは……」

 ちょうど視界に、昨日中庭で朋也と抱き合っていた女子生徒の姿が入った。
 きょろきょろと落ちつかないようにあたりを見まわして歩く様は、何かを探しているようでもあり、困っているようでもあった。

「どうした、何か困ったことでもあるのか?」

 相手の正体や昨日の出来事が気になるという理由ももちろんあったが、元来智代は面倒見のいい性格である。加えて、朋也への告白を成し遂げたことで、精神的にも充実していた。智代にとってそんな状況下で、困っている相手に声をかけないという選択肢は存在しない。
 しかし、相手はそうではなかったらしい。

「っ!??」

 びくり、と体を震わせて驚くと、智代のほうへ振り向きながら距離をとった。その行動から智代は、相手に対して気の弱い小動物のような印象を持つ。
 こんなに気の弱そうで善良そうな娘が、なぜ朋也と、よりにも寄って渚の前で抱き合う形になっていたのか、さらに智代は困惑する。
 だが、今はそんなことを考えるよりもこの女子生徒の警戒を解くほうが先決だと判断し、刺激しないようにと笑顔を浮かべる。

「ああ、すまない。驚かせてしまったか」
「あ、ううん、こっちこそごめんなさい」

 ぺこり、と頭を下げあう。まだ警戒、あるいは緊張の抜けきらない様子である女生徒に対し、智代はさてどうしたものか、と思案するのであった。



    ×     ×     ×



 人は驚愕の声すら出なくなるほど驚くことがあるんだな、などということを、朋也は頭の隅で考えていた。
 半ば予想――いや、妄想の類ではあるが、ともかくこの事態を想定していないわけではなかった。だが、朋也にとって「相手が自分のことを好きで告白しようとしているのではないか」などという勘違いをしてしまうことは、その自惚れっぷりに比例するように海よりも深く落ち込んで、ブロック塀あたりに頭を打ち付けて死にたくなってしまうほどの恥ずかしさを秘めている。
 よって、健全な精神活動の一環として、まさかありえないだろう、と一笑に付そうとしていたのだ。
 とはいえ、それでも心の片隅にあるもしかしたら、は簡単に消えるものではない。それゆえに一晩中ことみの件で葛藤していたわけなのだから。
 しかし、ことみの件があればこそ、「こんなことはそんな頻繁にあるもんじゃないだろ」と否定の気持ちが強かった。いや、その割には渚の直前にも告白はあったのだが、それも「まさかあるはずがないだろ……」という疲弊したかすれ声の否定を生み出していたのだ。
 だが、もはやそんなことはどうでも良かった。いまさらそんなことはまったく役に立たない。
 「まさか」は、目の前できっぱりはっきり違えようもなく起こったのだから。

「ご、ごめんなさい。やっぱり迷惑ですよね、こんなこといわれても……」

 無言の朋也の対応をどう受け取ったのか、渚は視線を下げて言う。
 何か、何かいわないと、と朋也はあせるものの、口は空回りするばかりだ。

「でも、どうしても言いたかったんです。こうしないと、自分の気持ちに整理がつけられませんから」

 ほぅ、と息をつく。

「これで、もう岡崎さんに気を遣わせずに済みます。あの、これからもお友達としてよろしくお願いします」

 そうして頭を下げる渚の様子に、後悔は感じられなかった。口ぶりからはすでに断られた後という印象を取れるのに、それでもだ。

「……なあ」

 そこで、ようやく朋也は声を発することができた。

「なんで、だ……?」

 問いは、ひどく漠然としたものだったが、朋也の心情を的確に表した言葉だった。
 なぜ告白するのか、なぜそこまで好意を抱いてくれているのか、なぜこの時期なのか、なぜ智代と立て続けなのか、なぜすでに断られたような口ぶりなのか、なぜ智代と同じように答えを聞かぬまま友人と言う回答に行きついたのか、なぜ智代もその回答になったのか、なぜ春原はアホなのか……。
 朋也の頭を埋め尽くしているのは、疑問ばかりだった。些細な疑問しかなかった昨日までの世界から、別世界に放たれてしまったかのように。
 その問いを、渚は朋也の自責のように聞いた。すなわち、相手を傷つけたくないばかりに、暗黙のうちに友人のままと言う回答を出すことは間違いだったのかという後悔の言葉ととったのだ。
 だから渚は、朋也に心配をかけぬよう笑顔を向けて答えた。

「岡崎さんの心遣いはとてもありがたかったです。でも、終われない恋は、思った以上に苦しかったんです」

 その答えは、朋也をさらに困惑させた。どういうことなのだろう、話が噛み合っていないのではないか、と。だが、だとしてもいったいどこから噛み合っていないのか。そういえば、恋と言うのは勘違いだとか何とかテレビで見た記憶もある。……そこから? いや、とにかく勘違いとしてもどう切り出せばいい? すでに結論の出たことに対して何かいえるのだろうか。しかもこんな状況で。

「そう、か……」

 混乱したままの頭で、朋也はそうつぶやいた。
 選択肢が用意されているのならば、ここまで混乱することはなかっただろう。YESを選ぶべきかNOを選ぶべきか、その答えを迷えばいい。
 しかし、結論を告げられたならばどうすればいいのか。問題が問題だけに、むやみに過程を聞くこともはばかられる。寝不足もあいまって頭は重たくパンクしそうで、下手に口を開くととんでもないことを言ってしまいそうだった。

「では、ことみちゃんと仲良くしてくださいね。不安がってましたから……あっ」

 そこで渚は、ことみを待たせたままでいたことを思い出した。

「ごっ、ごめんなさいっ。今ことみちゃんを呼んできますから、少しだけ待っていてくださいっ」

 渚が、あわてて朋也の前から去って行く。

「あ、え……?」

 なぜことみの名前が出てくるのか。昨日の場面のせいなのか。いったいどういうことになっているのか。そんな思いから伸ばしかけた朋也の手は、しかし渚にはまったく届かずじまいだった。



    ×     ×     ×



 一之瀬ことみは、目の前の女子生徒を見て、単純に綺麗な人だと言う印象を受けた。
 渚と別れてから、どうすればいいのかと悩み、やはり朋也を探そうと決心して探し始めた矢先にその女子生徒に呼び止められた。
 まだどうにも知らない人に話しかけられるのが苦手で大げさな反応をしてしまい、女子生徒が罰の悪そうな顔をしている。
 そんな顔ですら同性のことみに対して綺麗だと言う印象を与えるのは、外見はもとより内面からにじみ出るものがあるからだった。

「こ、こんにちは、はじめまして。3年A組の一ノ瀬ことみです。趣味は読書です。よろしくお願いします」

 どう切り出そうか迷っている相手に対して、ことみは勇気を振り絞って自己紹介を始める。ことみが成長している証だった。
 女子生徒は、一瞬軽い驚きを見せたもののすぐに気を取り直し、自己紹介を返した。

「ああ、私は2年B組の坂上智代だ。よろしく頼む」
「え――」

 女子生徒――坂上智代の言葉に、ことみは耳を疑った。
 その名前は、つい昼休みに聞いたばかりの名前だ。忘れるはずもない。
 それまで縁のなかった彼女の名前を昼休みに聞き、当人に意図せず出会ってしまう。それはどれほどの偶然が積み重なった結果なのだろうかと驚かずにはいられない。
 だが、重要なのはそんな偶然についてではなかった。
 朋也が付き合っているという噂の人物。そもそも朋也を探していたのも、その真実を聞くためだった。
 だが、もう一人の当事者がここにいる。ならばここで聞くべきだった。だが……なんと問えばいいのか。
 智代を見る。先ほども思ったが、やはり綺麗だ。年下らしいが、自分よりもぜんぜんしっかりしていると言う印象をことみは受けた。――朋也が惹かれるのも無理はないと思えてしまうほど魅力的だと。

「そういえば、少し聞きたいことがあるんだが、いいか?」

 智代は、自分の名前を聞いただけで軽い呆然状態になってしまったことみを不思議に思いつつも話を切り出した。
 ことみはうなずく。
 あまり躊躇しても仕方がないと思い、智代がかけた問いは核心を突くものだった。

「岡崎朋也を、知っているか?」

 その質問に、ことみは軽い驚きを覚えた。自分は相手の名前すら昼休みに聞くまで知らなかったのに、相手のほうは自分のことを知っていると言うことだ。それも朋也の関係で、だ。
 朋也から自分のことを聞いたのだろうか、と考える。そのあたりのことも含めて、この会話で明らかにすることが可能なのだ。当然、避けることはしない。

「うん……知ってる」

 その言葉に、智代は安堵を覚えた。人見知りなのかそのほかに理由があるのか、まだことみは智代に対して距離を置こうとしている。けれど、答えは真摯だ。
 だから智代も、ことみに対してまず口にするべきことがあった。

「まず謝ることがひとつ。昨日、お前たちの中庭でのことを覗き見てしまった。すまない」
「え……」

 これはことみにとって意外な話だった。見られていたこと事態に不快さはない。第一中庭だ、誰が見ていたと言って咎められるものでもないだろう。むしろ、それをわざわざ謝る智代の律儀さが強調されるだけだ。
 問題になるのは、むしろ別の部分だ。果たして、恋人が直接面識もない――いや、あったとしてもだ、とにかく恋人が他の女性に抱きつかれていたらどう感じるか。
 愉快なはずがない。

「それは……大丈夫、気にしなくていいの」
「そうか、ありがとう」

 顔を上げ、智代はことみを見据える。

「それで……こんな聞き方をするのは失礼かと思うのだが、どうか答えてほしい。一ノ瀬は、岡崎と付き合っている人がいることを、知っているか?」

 来た、とことみは感じた。

「……うん、知ってる。今日のお昼休みに、聞いた」
「そうか……」

 智代が息をつく。

「そのことを、忘れないでいてほしい。……私は、できれば岡崎と古河が、心穏やかにすごせればいいと思っている。そして、影ながらでもその手伝いをしたい。私のせいで、ずいぶんと二人には迷惑をかけてしまったからな」
「迷惑?」

 ことみは、きょとんとした顔をのぞかせた。

「ああ……そうだな、お詫びに私の話もしよう」

 智代は、一拍おくと話し始める。

「私は、岡崎に特別な気持ちを抱いていた。いわゆる恋愛感情だ。私は昨日、岡崎から古河のことを聞いていたのに……気持ちに抑えがきかなくなってきてしまってな。岡崎に告白したんだ」

 昨日渚のことを聞いてから告白したという智代の言葉は、ことみに軽い驚きを与えた。昼休みには最近付き合い始めたと聞いたが、まさかそんなにも近いとはさすがに予想の外であった。 

「……私のエゴだ。それを古河にも聞かれていた。結果的にはよかったと思うが、二人とも困惑していたよ。それもすぐに収まるとは思うが、私のせいで振り回してしまったことは変わりない」
「そう、だったんだ……」

 昨日の放課後の光景と今の智代の話。ことみは、果たして智代が告白したのは放課後の出来事の前か後かと考えるが、最近という言葉から今日ということは考えづらい。さらに昨日ことみは朋也と一緒に帰ったのだ。
 ということは、渚は智代の告白を聞いてから自分が抱きつくのを見たのだ、とことみは思い至った。そして狼狽し、逃げ出した。そこから察することがひとつある。

「渚ちゃん、朋也くんのこと好きだったんだ。だから昨日、あんなに驚いて……」
「やはり古河も見てしまっていたか……」
「うん。……ごめんなさい」

 ことみは深く頭を下げた。知らなかったとはいえ、自分のやってしまったことはやはりいけないことだったのだという気持ちがとても強い。

「い、いや、私に謝られても困る。今日になるまで知らなかったのであれば、どうしようもないことだろう。……私のほうこそ、嫌な思いをさせてしまった。すまない」

 もしかして自分は責め立てるようにいってしまっただろうか、と智代は不安になり、頭を下げる。しかし、ことみの返答は優しいものだった。

「ううん、いいの。智代ちゃんのしたことは、当然のことだから」

 やはりこの女性は素敵な人だ、とことみは思った。子供のころからの思いがとどかないのは悔しいが……仕方ないとも思う。
 そして、自分はいいからというのだ。本当に、智代は自分のための謝罪を要求してこの話をしたわけではないのだろう。

「ことみちゃんっ」

 と、そこで声とともに駆けてくる人物がいた。渚である。

「あ、渚ちゃん……」
「古河。もういいのか?」

 渚は二人の前でとまると、少し切れている息を整えて答えた。

「はい。坂上さんには、ご心配をおかけしました」
「そうか。どうも心配するまでもなく、もう大丈夫みたいだな」
「はい」

 渚も智代と同じく、晴々とした顔をしている。そしてその顔を、ことみに向けた。

「ことみちゃん、わたしは岡崎さんのことが好きです。そのことを岡崎さんに伝えたら、今まで悩んでいたことも全部すっきりしました。ことみちゃんは、どうですか?」
「え……、私……私は……」

 ことみの答えは決まっている。しかし、その答えを今ここでいっていいものかどうか。

「ことみちゃん、どうか不安にならないでください。朋也君は、ことみちゃんのことを待っていてくれますから」

 渚の言葉はありがたかったが、ことみはまだ不安をぬぐいきれずにいた。そして智代のほうをちらりと見ると、智代は笑顔でうなずいた。正直に答えるべきだとでもいうように。
 それで決心がついた。

「私も、朋也くんのことが好き」
「はい。そのことを、朋也君に伝えてきてあげてください。そうすれば、きっと何もかも解決します」

 そう、すべてが解決するはずだ、と渚は思った。智代の心の整理がつき、自分の心の整理もついた。あとは、元通り朋也とことみが仲良くしているだけだ、と。

「……そうか。うん、私もそれがいいと思う。思いを募らせているだけでは、前には進めなくなる」

 一ノ瀬はまだ告白していなかったわけか、と智代は思った。そしてその場を与えようとする渚に、やはりいい子だな、と改めて感じる。

「……うん、いってきます」

 二人の後押しを受けて、ことみは決心を固めた。
 智代は渚の気持ちを知っていて告白をした。渚は、智代と朋也が付き合っていることを知っていて告白をした。それは、どちらもそうしなければ前に進めなかったから。
 だとすれば、自分も勇気を出して前に進まなければいけない。子供のころからずっと大切にしてきた思いを告げる機会は、きっと今しかないのだから、と。



    ×     ×     ×



 いつのまにか夕日になった太陽の光で、中庭は真っ赤に染まっている。その中庭を自分のほうへと駆けてくる人物がいることに、朋也は気づいた。

「朋也くんっ」

 息を切らせてやってきたのは、渚の言葉どおりことみだ。
 なにやらもはや、ことみになんといえばいいかという悩みは初期値の三分の一ほどに減っているのだが、だからといって悩みが解決しているわけではない。

「よ、よう、ことみ」

 とりあえず挨拶をしてみるものの、この後どうすればいいかなどということは、朋也の頭の中にはまったくなかった。
 が、ことみにとっては違った。

「朋也くん。朋也くんにお話したいことがあるの」

 顔を真っ赤にしたまま、一度深呼吸をして呼吸を軽く整えると、両手を胸の前で握り締めた。

(ま、まさか……いや、そんな馬鹿な……)

 朋也は胸中でうろたえる。二度あることは三度あるなどということわざを思い出しもしたが、それは無視した。
 ああそうだ、ことみの顔が赤いのはきっと夕日のせいだ。真っ赤なのはさらに走ってきた所為だ。なにやら緊張した感じなのはええと、ええと、思いつかないけど何か重大なことがあるからだ、と必死で無駄に頭を回転させて、予測される未来から目をそらす。

「私、朋也くんのことが好き」

 無駄だった。
 やはりことみも、疑いようのない、まごうことなき告白だった
 ああ、やっぱりなのか、でもなんでこう立て続けなんだー、と、朋也は頭を抱えたい気持ちになる。

「ずっとずっと……あのころからずっと、朋也くんのことが好き」

(……あのころ?)

 しかし、その衝動はことみの言葉により疑念に置き換えられた。

(どういうことだ? 俺とことみは、まだ出会って一ヶ月もたっていないじゃ……ないのか?)

 だが、その疑念を口に出すことは憚られた。

「ことみ、お前、泣いて……」
「でも、私は大丈夫だから」

 毅然とした態度でことみは言う。
 そんなことみに驚きつつも、朋也の胸には何か引っかかることがあった。
 それはいわゆるデジャヴュと呼ばれるような感覚だと、朋也は感じた。何か、以前にもあったかのように感じる光景。まるで、炎に照らされるかのように真っ赤な明かりに照らされることみの泣き顔、なぜだかそれに胸を掻き立てられる。
 それに……散らばった本がなかっただろうか?
 この焦燥感は錯覚なのだろうか? それとも、自分は何かを忘れているのか……しかし、答えが出る前に、ことみの言葉が続いた。

「有紀寧ちゃんともお友達になれたし、それにね、智代ちゃんとも会ったの」
「智代と?」
「うん。とっても綺麗な人だった」

 これで、告白してきた三人がそれぞれつながった、と朋也は気づいた。が、それでもこの告白の連続という出来事の原因が分からない。
 一番可能性がありそうなのはいたずらという線だろうか? しかし、すでにエイプリルフールは過ぎ去っている。それに、相手が藤林姉妹だったらあるいはそういった可能性も考えられるが、相手が智代と渚とことみである。
 智代は嘘なんてことを嫌う性格だし、渚もことみも人をだまそうという発想ができる性格ではない。もし仮に強制されたとしても、あっさりぼろを出しそうだ。
 しかし、だとすれば他に何が考えられるというのか。告白は全員が本当のことで、立て続けになっているのは偶然だとでもいうのだろうか。

「あのね、朋也くん」
「お、おう。なんだ?」

 ことみの言葉に、朋也はまたしても自分が考え込んでしまっていたことに気がつく。
 そうだ、何をやっているんだ。ことみが告白していたというのに、自分は何をほうけているんだ。返事をしなければいけないんじゃないか、と自分を叱咤する。

「昨日は、ごめんなさい。智代ちゃんにも、さっき謝ってきたの。それで、恋人にはなれなかったけれど……朋也くんとは、ずっと友達でいたい」
「ことみ……?」

 なぜここで智代の名前が出てくるのだろうか、と朋也は困惑する。渚ならば、まだ分かる。昨日の光景を見て走り去ったからだ。けれど智代は……そういえば、智代に告白されたときに智代も見ていたっていってたっけ、と気づく。しかし、なぜそれで智代に謝って恋人になれなくて友達という結論に至るのかが、まったく分からなかった。
 というか、なぜ三人ともが、こちらの返事を聞く前に友達という結論を出すのか。しかも、ことみに至ってはそれで泣くほどだというのに。

「お願い……」
「……ああ、ことみがそう望むなら」

 ひたすら分からなかった。だから、朋也はそう答えた。

「よかった……」

 ことみは、心底ほっとした顔を見せた。

「やっぱり、渚ちゃんの言うとおりだった。これで、気持ちの整理がついたの」
「そう、か……」

 ことみの晴々とした顔を見て、智代と渚の晴々とした顔を思い出しながら、曇っているのは自分だけなのだろうか、と朋也は考える。

「それじゃあ朋也くん、また明日」
「ああ、また明日」

 朋也は手を振って、ことみを見送る。
 結局先ほど感じた焦燥感の答えは出ないまま、朋也は今現在のことに思考を切り替えた。
 この立て続けの告白は、もしかして、俺が振られているのだろうか、とすら朋也は考えてしまう。「お友達でいましょう」は断りの常套句でもあることだし。つまり、これは先制攻撃で。いや、だとすればその前の「好き」という言葉は何なのだろうか。
 もしかして、友達として好きなだけ、という警告? 下心を持っていると思われた? それで女子生徒にとっかえひっかえ声かけているようなやつだとかいう結論? いや、確かに女性の知り合いの率が高いがまさかそんな。
 考えれば考えるほど、思考は悪いほうへと向いていく。そのことに気づき、朋也は頭を振って考えを吹き飛ばした。

「ああ、本当に――」

 何故、こんなことになっているのだろうか。







 続く




 あとがき

 ということで、クライマックスです。
 あれ……最終話じゃなかったっけ?(汗) という感じです。
 ええと、本当に最終話だったはずなのです。ところが、書いているうちに容量が合計で40kをオーバーしまして……ちょうどいい話の区切りもある所為で、「分割せい」と相方から一声がありました。
 幸い、ここで区切ってももう片方も20k↑を達成できそうなので、そうすることになりました。
 ということで、もうほとんど5話も完成しています。あとはいくつかシーンを書くだけで、想い巡らしは終了ということになります。
 そのことについての感慨は5話を完成させてからということにして、最終話はあと少しだけお待ちください。 ではでは。