初めは、その言葉を理解することができなかった。
 いや、この言い方は正しくないだろう。正確に言うならば、理解しないようにしていたのだ。その言葉が聞こえた瞬間、無意識に。
 それは、急激にショックを与えないようにするための防衛本能であるのかもしれないし、理解したくないことに対し、ただただ呆然として思考回路が麻痺していただけかもしれない。
 なんにせよ、そんなことに意味はなかった。聞きたくなかったその言葉の中身が、変わるわけではない。
 よく使われる比喩で言えば、ハンマーで殴られたかのような衝撃。
 目の前の2人は、ショックを受けて黙った彼女を気にせず談笑を続けている。
 もともと彼女は積極的に喋るわけではないし、今日に限ってしまうならばそれは特に顕著であったのだ。気にされなくてもおかしくはない。
 だが、外部からの刺激がないとしても、いつまでも思考回路が麻痺していてくれるわけではない。
 大きなケーキが入った箱の紐をするすると解き、丁寧に包装紙をはがしていくように、ゆっくりと、噛み砕かれた意味が脳に浸透していく。
 そして、箱が開かれた。
 彼女――ことみは、その意味を理解する。
 確かに目の前の少年は言ったのだ。


 岡崎朋也には、付き合っている女性がいると。





 『想い、巡らし』 第三話





 昨日にひきつづき、一ノ瀬ことみは資料室へと来ていた。
 今日は朝から図書室ではなく、資料室にいたのだ。
 それは、昨日宮沢有紀寧から薦められた本を読むためである。もとより本の虫ともいえるほど、多種多様な本を読むことみである。積み上げられた本は、すらすらと消化されて行った。
 ことみが資料室を優先して訪れているのは、本そのものを読むためという目的も当然含まれている。自分が知らない間に増えていた、資料室の本に対しての興味は大きい。
 だが、それ以上に有紀寧に薦められた本であるという事が大きかった。人に勧められた本と言うものは、本そのものの楽しみに加えて、薦めてくれた相手とその本について語るという副次的な楽しみがある。
 いままでことみの傍には、読んだ本について共に語り合ってくれるだけの本好きはいなかった。そのため、ことみは本を読みながらこんな事を話そう、ここについて彼女はどう感じただろうか、といつもとは違ったわくわく感でいっぱいだった。
 ちなみに、図書室のほうから専用クッションは持ってきている。いつものように靴下も脱いで、巾着袋も手元にあった。ただし、はさみだけは持っていない。
 そもそもことみが本を切り取る理由というのは、両親の研究に関係するものだけだったし、朋也にも本を切るなと注意を受けている。それに、ここにある本が好きだという、有紀寧に配慮した結果でもあった。
 相変わらずの集中力で、ことみは本を読み進める。その瞳の動きの早さは相変わらず驚嘆すべきものであるが、この場でそれを見る人はいない。
 そんな状態で、時間が過ぎる。
 そして、定刻通りに昼休みの始まりを告げるチャイムの音に、頬をつねろうが勝手にページをめくろうがロクに反応を示さないことみが、大きな動きを見せた。だが、これは恒常的なことである。
 図書館で過ごしている時も、ことみが昼休みのチャイムを聞き逃すことはない。常であれば、ことみにとって昼休みのチャイムは、退出の合図だ。
 だが、今日は退出しない。ここの主であり、昨日友人となった少女を、今か今かと待ち望むのだ。
 ほどなく、扉が開かれる。

がらっ

「有紀寧ちゃん、こんにちは」
「はい、こんにちは、ことみちゃん」

 そして、二人は今日もニコニコと挨拶を交わした。






 まず二人は、お弁当を食べることにした。
 昨日のように、有紀寧が紅茶を淹れる。そして二人は、向かい合わせに座った。
 ことみが手を合わせるのを見て、有紀寧もそれに習う。

「いただきましょう。いただきます」
「いただきます」

 声を合わせて挨拶をする。
 そしてお互いに弁当箱を開くのだが、そこで双方ともが相手の弁当を見て感嘆の声を上げた。

「有紀寧ちゃんのお弁当、美味しそう……」
「ありがとうございます。ことみちゃんのお弁当も、美味しそうですね」

 有紀寧は、そうだ、といって名案が閃いたというように、手を叩く。

「ことみちゃん、おかずの取りかえっこしましょう」
「うんっ」

 試しにことみが肉じゃがを差し出すと、茶目っ気を出した有紀寧が、同じく肉じゃがを差し出した。
 同じ料理とはいえ、作る人が変われば味は変わる。ジャガイモに染みている味付けも違えば、その固さも違う。だが、共通するのは美味しいと言うことだ。
 ことみは朋也と一緒に昼食を取る際、弁当とパンの交換ということはしている。だが、弁当同士の交換となると、また新たな喜びが感じられた。
 そうして、昼食は和気藹々と続く。
 やがてランチタイムが終わる。その時、ふと有紀寧が困ったような顔をした。

「そういえば、ことみちゃんに言っておかなければいけないことがありました」

 それに、ことみはきょとんとするだけだ。

「実はですね、昨日は偶々誰もいらっしゃらなかったんですが、いつもはわたしのお友達も、ここに来るんです。皆さんとっても良い人たちなんですが、ことみちゃんを怖がらせてしまうかと思いまして……」

 有紀寧はめずらしく、語尾を濁した。
 初めて会った時の様子も含めて、ことみという人物を観察してみれば、ことみが人見知りをするということは、簡単に見て取れる。見かけで人を差別するつもりはなくても、やはり有紀寧の友人には強面が多い。ことみと会わせるのははばかられた。
 かといって、ことみをここから追い出すわけにもいかない。常識的に考えれば、この学校の生徒であることみこそここにいてしかるべきだし、それ以前にことみも尋ねてくる友達も、ないがしろにしたくはなかった。

「有紀寧ちゃん……」

 有紀寧の板ばさみの苦悩を察したのか否か、ことみのなかにはその時、一つの決意が生まれた。
 その決意を顔ににじませ、ぐっと顔を向ける。

「大丈夫。わたし、がんばるの」

 言葉は少ない。だが、その意思は、確実に有紀寧へと伝わった。
 そもそもの始まりは、朋也のちょっとした作戦だった。有紀寧と自発的に友達になってくれればと。そして、朋也の助けを借りることなく有紀寧と仲良くなったことが、ことみの背中を押した。
 有紀寧は、ことみのその決意に、いつかの自分を思い出した。兄を追って、兄の友人達の中へ飛び込んでいった時のことを。知り合ったばかりで、まだまだことみに関して知らないことは多かったけれど、きっと自分達はそういった意味でも似ていると、有紀寧は感じた。

「はい……がんばりましょうっ」

 有紀寧が手を差し出し、意味を理解したことみが、一瞬遅れて手を差し出す。握った手をぶんぶんと上下に振り、ここに二人の共通の目的が出来あがった。

「でも、具体的にはどうすれば良いのかな?」
「そうですねー、とりあえずは自己紹介、でしょうか」

 有紀寧が少し上を見上げて考えを漏らす。

「この学校の生徒相手ですと、自分のクラスもあったほうが良いかもしれませんね。あとは趣味等でしょうか」

 けれど何より大切なのは、と続ける。

「仲良くなりたい、という気持ちを伝えることなんだと思います」

 有紀寧の言葉に、ことみはこくこくと頷いた。
 ちょうどそんな時、ドアが開く。

「有紀寧ちゃーん、こんにちはっ」

 そこに現れたのは金髪の男子生徒、春原陽平だ。
 見なれぬその姿に、ことみは一瞬有紀寧の背へと隠れかける。しかし、先ほどの決意がそれを押さえ込んだ。
 そして、立ちあがる。

「いらっしゃいませー」
「いやー、今日も可愛いねー、って、あれ?」

 陽気に有紀寧へと話しかけていた春原が、ことみの存在に気付く。

「一ノ瀬ことみじゃん。なんで……ああ」

 春原はことみに疑問を投げかける途中で、自己完結へと至った。ことみの本好きは、彼も知っている。ならば、有紀寧と友人であることはむしろ自然かと、彼は思った。
 しかし、その納得の表情は、次の瞬間驚愕の表情へと移り変わる。

「えと……こんにちは、はじめまして。3年A組の一ノ瀬ことみです。趣味は読書です。よろしくお願いします」

 深くお辞儀をすることみに対し、春原は呆けていた。唐突な事態で、彼の思考は正常に機能しない。
 なんの返事もないことを訝ったのか、ことみが恐る恐るといった様子で春原の方を伺う。それに気付いた有紀寧が、助け舟を出した。

「ほらほら、春原さんもご挨拶してください」
「え、あ、うん……」

 有紀寧に促されるままに、春原が自己紹介をする。

「春原陽平、3年D組……趣味はええと……ボンバヘッかな……」

 その場にいる2人とも『ボンバヘッ』なるものを知らなかったが、何かに深く悩みながら自己紹介をしている春原に対して、尋ねることはしなかった。
 とりあえずことみは席につき、春原は頭を抱えた状態でしゃがみこみ、有紀寧がコーヒーをいれる。
 そのまましばらくうんうんと唸る春原だったが、コーヒーが入るころには自分の中で何らかの結論を出したのか、顔を上げた。

「そういえば、岡崎のやつも仲良かったみたいだし……ははっ、案外大したことじゃないんだね」

 自分と同系統にいるはずの、岡崎朋也のことを考え、春原の中での決着はついた。
 それに反応したのが後の2人だ。

「朋也くん?」
「朋也さん……そう言えば、最近いらっしゃいませんね」
「え……朋也くんも来てたんだ」
「はい。最近はどうしたんでしょうね、春原さんは知っていますか?」

 有紀寧の言葉に、ことみは自分の知らない朋也の交友関係を顕著に感じた。
 前半の、自分に対する返答だけではない。後半にある、最近の朋也。これもまた自分の知らないことだ。いやむしろ、自分はその最近の朋也から遠ざけられようとしているのではないか。ここ数日は忙しくなり、相手が出来ないといわれたのだから。
 そのことを意識した瞬間、ことみはなにか嫌な予感を感じた。そう、虫の知らせのようなものを。
 だが、それはあまりにも遅すぎる予感だった。
 春原が、有紀寧に答える。

「ああ、あいつなんか最近、彼女が出来たらしいからね。ほら、2年の坂上智代ちゃん、知ってる?」



    ×     ×     ×



 岡崎朋也と坂上智代は、中庭にいた。
 さすがにどちらかの教室でというのは恥ずかしいし、学食は混雑している。消去法での選択だ。
 だが、智代の心中は複雑だった。
 そもそも朋也と昼食を共にして良いのかという思いがある。自分の気持ちに整理をつけられていないし、中庭というと、どうしても昨日のことを思い出してしまう。
 それでも、嬉しいと思う気持ちもまた本物だ。そして、それを窘める自分が同時に存在する。

「この辺でいいんじゃないか?」
「あ、ああ」

 考え事をしていた所為で、智代はいくらか反応が遅れた。
 まだ4月と言うこともあり、中庭に出て昼食を取っている生徒はさほど多くない。場所は容易に確保できた。
 石段の縁に並んで座る。智代は自分の膝の上に弁当箱を置き、朋也は買ってきたばかりのパンを取り出した。

「岡崎は、いつもパンなのか?」
「ん、ああ。偶に学食でも食うけど、基本的にはパンだな。智代は?」
「ああ、私は毎日自分で作っているぞ」
「へえ、すごいな」

 感心する朋也に、智代は照れくさそうに視線をはずした。

「なんなら、食べてみるか?」
「ん、いいのか?」
「ああ、これでも料理には多少自信がある」
「そうか……じゃあ、このから揚げでもいただくかな」

 智代はこくりと頷くと、指定されたから揚げを箸で取った。そしてこちらの方へ差し出されている朋也の手のひらに乗せようかというところで、ふと尋ねる。

「岡崎、食事前に手は洗っているか?」
「え、いや」
「ダメだ。それではいけない、不衛生だ」
「んなこと言われてもな……」

 どうしたもんかと呟く朋也だったが、それに対して智代の頭の中では実に激しい言葉のやり取りが為されていた。
 今なら、割と自然にこのまま朋也の口に運ぶことが出来る、『しかたのないやつだな、特別に私が食べさせてやろう』とでも言えば問題ない、いやいや多くはないとはいえ人の眼があるというのにそんな事が出来るか、じゃあしたくないのかと言われればしたいに決まっているし、ほかにこのから揚げの置き場所もないわけだからあくまでしかたなく食べさせてあげるだけであって――

「あ、じゃあパンの上においてくれよ。それなら良いだろ?」
「…………ああ」

 返答までに間があったことと、どことなく落胆した声音、そのどちらにも気付いたものの、朋也は大して気にすることなくから揚げをパンの上に受け取った。
 そして、智代の自信があるという言葉に期待をしつつ食べる。

「お、うまいな」
「そ、そうか。なんなら、もっと食べても良いぞ」

 朋也の一言だけで智代の声に張りが戻る。
 そうして、智代がおかずをパンの上に載せ、朋也がそれを食べていくと言う奇妙な光景が生まれた。
 だが、それが長く続くはずもない。

「おい、智代。俺としてはありがたいが、あんまりやると自分で食べる分がなくなるぞ」
「え、ああ、そうだな」

 もっと食べてもらっても良かったのだが、という智代の胸中を朋也が察することもなく、各々の食事が再開される。しかし、数度箸を動かしたところで智代は尋ねた。

「古河は……料理はしないのか?」
「古河? いや、よくは知らないが……一応、するんじゃないか」
「そう、か……」

 渚はどうやら朋也に料理を作ったことがないらしい、ということに、智代は少々驚いた。

「それにしても、なんでいきなり古河の話に?」
「あ、いや、それは」

 軽く、うろたえる。

「ただ、気になっただけだ……」

 もしよければ、私が弁当を作ろうか? という言葉は飲みこんだ。

「そうか」

 言えるはずがなかった。
 智代は、自分がどんどん嫌なやつになっていくのを感じていた。
 セルフコントロールが出来ない。この想いは、果たしてどこにやれば良いのかと、自問する。朋也にぶつける? でもそうなれば、友だちでもいられないだろう。そもそもが横恋慕なのだ、口にするべきではない。
 それが、いつもの結論だった。

「そういや、聞きたいことがあるんだけど」
「ん? なんだ」

 質問は救いだった。沈みかけた気持ちが浮上する。

「あー、いや、なんつーか、こう言うことを聞くと変に思われるかもしれないんだが」

 朋也が、言い出しにくいというように、視線をさまよわせる。智代は、それを急かさずに待った。
 やがて、朋也が意を決して訥々と喋り出す。

「その、さ……異性で仲のいい相手がいたとして、その相手に恋愛感情を抱いているのか単なる友情なのか、知る方法なんて心当たりないかな、とか……」

 朋也は、朝の反省を踏まえてか最後まで一気に話してしまおうと勢いをつけていたが、それでも質問している内に自分がなんてけったいな事を聞いているのだろうと自覚して、語尾の方では言葉を濁す形になってしまった。
 だが、それを聞く智代にとっては、そんなことなど気にする余裕はさらさらなかった。
 そもそも、中盤以降は頭の中を素通りしている。まさにフリーズした状態だ。

(異性の友人……恋愛感情……恋愛感情、恋愛感情、恋愛恋愛恋愛恋愛……)

 壊れたテープのように、同じ言葉を胸中で繰り返す。
 智代は思った。
 つまりそれは、自分の思いを悟られたのか、と。



    ×     ×     ×



 ことみが、黙考から戻ってきたのは、昼休みがもうすぐ終ろうかという頃だった。
 ことみが黙っている間は、春原が智代の話題を出してから「直接聞いてみたら恥ずかしがって否定してたけど、あれはどう見ても付き合ってるね」といって延々朋也と智代の関係、および自分がどれだけ被害を受けているかという話をし、有紀寧がそれに相槌を打つ形で会話がなされた。
 有紀寧も流石に年頃であり、身近な人間の恋愛話には興味がそそられていたようである。それにますます興がのって、春原は饒舌に喋りつづけた。
 その間に有紀寧を尋ねてくる友人もおらず、春原を遮るものはない。
 そういったことから、資料室における昼休みの時間が進む速度は3人ともが早く感じるものだった。

「そろそろ、教室に戻らないといけませんね」
「ああ、もうこんな時間なんだね」

 本心で言えば、サボろうがかまわない春原ではあったが、有紀寧の手前授業に出なくてはならない。
 有紀寧と春原は、共に席を立った。

「ことみちゃんは、まだここにいるんですか?」
「あ……うん、もうちょっとここにいるの」
「はい。では、またお話しましょう」

 春原はさっさと資料室を出て、有紀寧はことみに一礼してから教室へと向かっていく。
 心中複雑な状態のまま、資料室に1人残されたことみが、2人が出ていった扉を見て、一息つく。
 友人作りよりも先にすべき、優先事項が出来たことを自覚する。 
 春原の言葉が、本当のことであるのか否か。
 友人であるという彼を疑うつもりはないが、もしかしたら勘違いかもしれない。いや、勘違いであって欲しい……そんな考えが去来する。

「……確かめよう」

 口に出して、ことみの気持ちは固まった。放課後、直接朋也から話を聞こうと。



    ×     ×     ×



 古河渚が、その姿を見つけたのは偶然と言うわけではなかった。
 むしろ正直に言ってしまえば、その姿を探していたと言ってもいいだろう。
 渚の視線の先、中庭に朋也は智代と共にいた。その姿を認めて、渚は校舎から下へと降りていく。



 渚は、中庭に下りた。そして、二人の近くまで行く。だが、必要以上に接近はせず、結局二人が何を話しているのかは聞こえない。
 そこで、渚はその場所へ座り学食で購入してきたあんぱんを食べながら様子を見ることにした。
 そうやってしばらく眺めていると、唐突に智代が立ちあがり、いずこかへと駆け出す。残された朋也はぽかんと智代が走り去った方向を見つめている。
 1分ほど経過して、朋也は腰を上げた。智代を追うでもなく歩き出す。と、そこで渚と朋也の目が合った。
 朋也が近づいてくる。

「よう、古河」
「あ……こんにちは、岡崎さん」

 元気のなさそうな顔で、気まずそうに、渚は挨拶をした。朋也はその様子を見て、やはり昨日のことを気にしているのか、と思う。

「ところでさ」「あの……」

 声を発したのは、ほぼ同時だった。
 思わず、気まずい沈黙が訪れる。
 ただでさえ、お互いに話しづらいと感じている話題を口にしようとしていたのだ。そのうえこうなれば、どうにも切り出しにくい。

「お、岡崎さんからどうぞ」

 渚が、朋也に先に話すことを譲る。渚の性格を考えれば、それは当然のことだし、渚自身何をどう言えばいいのかまとまっていなかった。
 昨日のことみと抱き合っていたシーンを見てしまったこと、そして智代から聞かされたこと。意を決して話してみようという思いはあるのに、その思いは言葉と言う形をなさない。
 そんな渚の胸中を朋也は知らないが、渚に譲り返したとしておそらく受け取らず、また沈黙が始まってしまうに違いないと予想はついたので、自分のほうから切り出すことにした。 

「ああ、その……だな」

 だが、朋也もまた言いにくさを感じる。それも当然、散々悩みぬいて結局明確な答えはだせていないのだ。
 だから、まずはそれほど当たり障りのない話題から始めることにした。

「そういえば、古河って料理はするのか?」
「え……料理、ですか? はい、一応少しは作れます」

 けれど、なぜ突然そんな話になるのかと、渚が首をかしげる。

「あー、実はさ、さっきまで智代と一緒に飯食ってたんだけどさ、智代がなんか気にしてたみたいなんだよ」
「坂上さんが、ですか……」
「ああ。あいつは自分で弁当作ってるって言ってたから、なんとなく気になったんじゃないか」

 朋也の説明を受けて、渚は一応なるほどと納得する。
 しかし、なぜ朋也に聞いたのかに関しては、やはり分からない。それは智代本人に聞くしかないのだろう、と判断する。

「ええと……それで、坂上さんはどこへ行ったんでしょうか?」
「ん、ああ、なんか慌てて、急用を思い出したとかいって、どこかに行っちまったな。まあ……妙なことを聞いた所為か」

 朋也が溜め息をつく。

「妙なことですか?」
「そうなんだが……うーん」

 朋也のなかでは、その質問を渚にもぶつけるか否かを迷っていた。
 智代はどう言うわけか、異性間の恋愛と友情に関して質問をすると、しばらく固まった後に立ち去ってしまった。考えてみれば、この質問はまったくデリカシーに欠けるものなのかもしれない、とも思う。
 しかし、朋也にとっては重要事項だ。いや、朋也も相手が自分に恋愛感情を抱いているかどうかを図ろうという行為が姑息であるのは理解している。理解はしているが、それでも知りたいという気持ちが強い。
 そう、やはり知りたいのだ。考えてみれば、渚は昨日の場面を目撃している。昨日の出来事でそういった意識を初めて持った、それで悩んでいると、正直に相談すればいいではないか。朋也はそう結論付けた。

「実はな、異性で仲のいい相手がいたとして、その相手に恋愛感情を抱いているのか単なる友情なのか、知る方法っていうことを聞いたんだ……け、ど……」

 そしてそれを聞いた瞬間、やはり渚も固まった。
 さらに渚の場合は、既に朋也に自分の好意が知られているものと考えている。
 それ故に渚の中では、衝撃よりも納得があった。具体的なことは分からないが、そうやって、自分の想いは伝わってしまっていたのかと。
 しかし、それは朋也からすれば冷や汗を流さずに見ることなど出来ない、深く落ちこんだような様子に見えた。
 今日の渚は、会った時点から元気がなかった。だが、何故かは分からないが、今の発言は決定的なものになってしまったように見えた。
 覇気のなさと、重い空気。その姿はもはや心配を誘うものだ。とても、ここから相談事なんて持ちかけられないような雰囲気である。

「いや、すまない古河。お前のことを考えずに、妙なことを言っちまった」
「あ……いえ……岡崎さんの所為ではないです」

 渚は、朋也が自分の想いに気がついていたとしても極普通に友人として接し、さらにこうしてそのことを告白してくれ、謝罪までしてくれることに感謝の念を抱いた。
 そう、一連のことは朋也に非があるわけではない。いや、仮に相手の好意を量ろうとすることが非であったとして、朋也はそれを正直に告げてくれている。それに非があるはずがないと、渚は思ったのだ。
 ただ、渚にとって悲しいのは、明確な結果、イエスかノーとして現れないことであった。告白というイベントがなければ、それに対する答えはないのだ。
 ことみの存在、そして好意を知られているという状況を鑑みれば、仮に「付き合ってください」と申しこんだところでノーという答えが返ってくるだろうと予測がつく。しかし、その答えに自分が傷つくとわかっていても、終わりを迎えられぬ恋も悲しい。
 ならば、自分は告白が出来るだろうか、と考える。
 現状朋也に気持ちが知られていても、友人として接してもらっているのだ。告白をしてそれに対して答えを貰っても、友人として過ごすことは出来るのではないだろうか。恋がかなわぬことを自分は悲しむだろうが、それを乗り越えることが出来るのであれば……。

「大丈夫か? 調子悪いんだったら、保健室まで送るけど」
「あ……大丈夫です。体調が悪いわけではありませんから……ただ、ちょっと寝不足なだけです」
「そう、か……ならいいけど、気をつけろよ」

 一方朋也は、だんだんと自らの無神経さを疑うようになってきていた。そうだ、いくらなんでも、相手が自分を好きであるかどうか量ろうなんて考えは呆れられてしまうものに決まっているだろう、と自分に言う。
 そりゃあ、自分が好かれていると勘違いしているだけであれば、惨めには違いない。けれど、それで相談するなんて、姑息にもほどがある。客観的に見て、自分がとても情けない人間であったと痛感する。
 ならば、はっきりとさせればいい、と朋也は考えた。まずは自分の気持ちを明確にすること。そもそも、相手がどうとか言う考えも良くない。好かれているかどうかで判断する、そんな姑息なことは止めようと、決意をする。

「じゃ、そろそろ昼休みも終わりだし、教室に戻るぞ」

 朋也は渚を教室まで送り、昼休みの余韻が残る自分の教室へと戻る。
 席の隣には既に春原がいて、なにやら面白いことでもあったのかニヤニヤしていた。






 こうして、それぞれの胸に複雑な思いを残し、昼休みは終わりを告げた。



    ×     ×     ×



 五時間目の英語の時間。
 いつものように授業を聞き流している朋也の横で、珍しいことに春原が何やら書き物をしていた。
 普段通りの朋也であれば、いつもと違う行動を起こしている春原に対してちょっかいをかけるところであるが、あいにく朋也の内面はいつもとは異なる。
 が、それを察していない春原が朋也へと声をかけた。

「なあなあ、岡崎」
「……なんだよ」

 一瞬無視しようかと思う朋也だったが、そうしたとしても諦めずに何度も話しかけてくるのが春原である。そうなれば余計うっとおしいに違いないと思い、ぶっきらぼうながらも応対する。
 だが、なにやら機嫌の良いらしい春原は、そんな朋也に対して気後れすることもない。

「あのさ、相手に手紙を書くときに、英語で宛名ってどう書けば良いのかな?」
「……はあ?」

 まったく予想の範疇外の質問であったことに、適当にあしらおうと思っていた朋也ですら、素っ頓狂な声を上げる。

「一体何を考えてるんだ、お前?」
「ふっふっふ、僕はついに一矢報いる方法を見つけたのさ」

 噛み合わない会話に朋也は不可解な顔をするが、春原は「おっと、これは秘密だった」と言ってこれ見よがしに自分の口を封じた。
 一体何を考えているのか、問い詰めても良いのではあるが、九分九厘下らないことであろうとは予想がつく。暇であれば付き合ってやっても良いが、今日はそういった気分になれず、朋也はさっさと用件を済ませることを選んだ。

「まあ、どうでもいい。んで、英語で宛名って、なんでんなこと考えてるんだ? エアメールってことはないだろうし、実家にでも手紙を送るのか?」
「いや、相手の下駄箱に入れておくつもりなんだけど。ほら、英語で書いてたほうがお洒落じゃん?」
「……春原ならそんなもんか」

 春原相手に、まともに相談を受けようと考えること自体がそもそも間違いだな、と溜め息をつく。

「それでさ、どんな風に書けば良いんだっけ?」
「辞書でも引けよ」
「はは、辞書なんて買ったことねえよ」
「今ない、じゃなくて持ってすらいないのかよ」

 自分も五十歩百歩であることは自覚しているが、さすがに朋也は呆れてしまった。

「だから聞いてんじゃんか」
「わかったよ……ええと、確か上の方にDearで、下の方にFromじゃなかったか」

 朋也の教えるスペルを、春原がふむふむと頷きながら書き取る。

「名前ってイニシャルの方が良いのかな」
「いいんじゃねえの」
「苗字と名前、どっちでも良いよね」
「ああ」

 やたらと質問を重ねてくる春原に、だんだんと朋也の解答がおざなりになっていく。

「あれ、そういえば英語だと前後順番逆なんだっけ?」
「ああ、そうそう」

 朋也がロクに話を聞かず適当に返した所で納得したのか、春原の質問が止む。
 ようやく静かになったか、と物思いにふける朋也は、その時の適当に流した答えが後の自分にどう振りかかるか、当然予想がつくはずもなかった。



    ×     ×     ×



 六時間目の終わりのチャイムがなる。
 この時間2−Bの授業は体育で、智代は校庭に出ていた。
 いつもとは違い、ほとんど活躍の場がなかった智代は、クラスメイトの心配の声に礼を言いつつ集団からは少し離れて移動していた。
 運動をしても、気持ちが晴れることはなかった。どうしても上の空になってしまい、集中することが出来ない。
 どうにかしなければとあせる心と、沈んだ心をつれて、下駄箱をあける。するとそこに、授業開始前に開いた時には、明らかになかったはずの紙が入っていた。
 それは大仰に便箋で封をされたもの――などでは断じてなく、そっけなく二つ折りにされてレポート用紙だ。
 いぶかしみながらも智代は、そのレポート用紙を開き、中に書かれた文面へ視線を走らせる。


“Dear S

 前略

 お前にどうしても、言ってもらいたいことがある。
 このままじゃ、今後のお互いの関係にも問題が出る
かもしれない。
 だから、はっきりとお前の口から言わせたい。
 放課後、中庭で待っている。

From T”


 以上が、レポート用紙に書かれていた内容だった。
 それを理解した途端、智代の心はざわついた。
 字の汚さから、おそらくこれを書いたのが男性であることが読み取れる。
 Sは坂上のSと判断するしかない。では、Tは――




 智代は、くらりと眩暈に襲われた。
 動悸も早くなり、呼吸は覚束ない。運動の影響か、冷や汗か、それとも別の何か原因があるのか判然としない汗が流れる。
 智代の心はここにいたって、最高潮の混乱となった。
 そのため、この手紙にあるあからさまにおかしな点を気に留めることもない。

(どういう、ことなのかは……わからないが)

 手紙を手に、ぐっと唇を引き締め、顔を上げる。
 それは、決意を持った者の顔だ。
 放課後の中庭。
 そこに『彼』が現れるのであれば、伝えようと、心に決めた。



    ×     ×     ×



 放課後が訪れた。
 帰り支度をするものや、最後の大会へ向けて部活にいそしもうとするもの、居残りで勉強に励もうとするもので賑わう3年生教室のある廊下で、ことみは渚を発見した。

「渚ちゃんっ」
「あ、こんにちは、ことみちゃん」
「うんっ、はぁ……こんにちは」

 ことみは立ち止まり、軽く乱れていた息を整える。
 その間に、渚の方からことみに話しかけた。

「あの……昨日はごめんなさい」
「? ううん、気にしてないの」

 渚が謝っているのは、放課後の中庭の出来事なのだが、ことみは何について渚が謝っているのか心当たりはなかった。だが、今ことみにとっては、それを追求することよりも聞きたい事がある。

「ところで渚ちゃん、朋也くん見なかった?」
「岡崎さんですか? 昼休み以降は見ていませんが……」
「昼休み……」

 現在位置がわからないのは残念ではあったが、ことみにとっては昼休みというのも気になるところではある。

「昼休みは、どこに?」
「中庭です。ええと……ことみちゃんは知っているかどうかわからないんですが、2年生の坂上さんと一緒に食事をしているのを見ました」

 その言葉が、ことみに強い衝撃を与えることはなかった。
 昼休みに知らされたことに比べれば、衝撃といった意味では大したことはない。ただ、重い意味を持つだけだ。
 つまるところ、朋也本人に確認するまでもなく、噂が事実であったということに過ぎない。確かめるという目的は、この時点で果たされたのだと、ことみは感じた。

「そう、なんだ……どうもありがとう、渚ちゃん」
「いえ……」

 目に見えて元気のないことみに、自分が何かまずいことを言ってしまったか、と渚は思ってしまう。
 だが、それは深く考えるまでもなく当然のことだ。恋人が昼休みに別の女性と食事をしていれば、そうそう心中穏やかではいられないだろう、と渚は思い至った。
 昨日、朋也は渚と昼食を取っていた。今日は智代と昼食を取っていた。昨日の放課後にはことみと共にいたが、普段は放課後も演劇部の手伝い等で朋也の時間は取られている。
 不安になるのは仕方がないし、寂しくもなるだろう。しかし、その一因である自分に恨みがましい視線のひとつも向けないことみに、渚は自分を恥じ入った。
 やはり、これ以上の演劇部の手伝いは辞退しよう、と決意する。目の前の優しい友人の沈んだ顔は、渚の望むところではなかった。

「ことみちゃん、大丈夫です。私に任せてください」

 渚が、自分の胸をぽんと叩く。それは空元気ではあったが、決意を実行に移すためには十分だった。
 ことみは渚の言葉をうまく受け取り損ねているようではあったが、それを置いて渚は踵を返し走り出した。
 一つの予感があった。昨日の昼も、放課後も、今日の昼も、朋也とは中庭であった。
 ならばきっと、今も――



    ×     ×     ×



「岡崎〜頼んだぞ〜〜〜〜」

 引きずられていく春原を見ながら、朋也は深く溜め息をついた。
 溜め息の原因はこうだ。
 まず、春原が五時間目に書いていた手紙は、どうやら智代宛てのものだったようだ。
 なぜ智代に手紙を書いたのかといえば、春原によれば「今後も付き合いがあるんなら、ここらでお互いの立場をはっきりさせないといけないからね。ギャフンといわせておかないと」ということらしい。そのギャフンにはまいりましたとかなんとか、とにかく春原の優位を認めさせるものだというが、なぜそんな事をしようと思い立ったのかは、朋也の知るところではなかった。
 とにかく、春原はその手紙で智代を呼び出した。しかし、そこで一つ問題が発生した。
 それはつい先ほどのことであったが、また何やらラグビー部に因縁をつけられたというのだ。
 なんとか命からがら逃げてきたものの、このままじゃ待ち合わせ場所にはいけない、そうなれば更に智代にも狙われることになる、と朋也に泣き付いてきたのだ。
 ようするに、自分の代わりに智代との待ち合わせ場所にいってきてくれ、ということである。
 意外と律儀だ、と思ったところで、ラグビー部に春原が捕まったというわけだ。

「ああ、任しとけー」

 朋也自身、昼間のことを智代に謝罪したいという気持ちもあったため、了承の旨を伝える。
 だが、いつも通りのバカ騒ぎを繰り広げる能天気そうな春原を見て、自然と溜め息が出てしまったのだ。
 そして、春原が完全に連れ去られてしまった後、朋也も中庭へ向けて教室を出た。









 夕焼けと呼ぶにはまだ幾ばくかの時間を必要とする太陽は、それでも昼間に見たときよりも長い影法師を作り出していた。
 どうも、つくづく最近の自分は中庭に縁がある、と朋也は思う。
 芝生を踏み、校舎からは死角となる石垣の陰へと向かう。
 視線はもう、智代を捕らえていた。
 彼女は朋也が来たことに関して少しも驚きを見せておらず、朋也はそれを少しばかりいぶかしんだが、それが深い疑問となることはなかった。

「よ、もう来てたんだな」
「ああ……ホームルームが終わってから、一目散に来たんだ」

 智代の顔は、はっきりと赤かった。今だ夕日の時間ではなく、昼間見たときには元気はなかったものの、熱があるといった様子ではなかった。
 そう、あの赤さは照れや恥じらいといった感情から来るものだと、朋也にもわかった。
 その理由は、おそらく春原の手紙ということになるのだろうが……春原から聞いた内容では、どこをどうねじ繰り回しても、智代が照れる展開というのは思いつかなかった。
 わからないことは考えていても仕方がないと、朋也がまず自分の用件を切り出す。

「あー、智代……昼間は――」
「いや、朋也。まずは、私から言わせてくれ」

 朋也の言葉を遮り智代が言葉を紡ぐ。
 それに頷き、朋也は口を閉じた。

「手紙は読ませてもらった。私が不甲斐ないばかりに迷惑をかけてしまったのを、申し訳なく思う」

 智代は、両手を胸の前に置く。頬を染め、意思を称えた瞳で朋也を見るその姿は、とても女の子らしい絵になる光景だった。
 けれど何故、と朋也は思う。
 先ほどから朋也の中で引っかかってはいた。自分は春原がこれないことを伝えに来ただけである。そのついでに昼間妙なことを聞いてしまった件について、謝罪をしようと考えていた。
 それで簡単に用件は終わり、授業中に心を砕いていた問題を解決しようと思っていたのだ。
 だが、これではまるで――

「だから、はっきりと言おう」

 その時、二人に近づいていた女子生徒の存在には、朋也も智代も気付かなかった。
 場が乱されることはなく、智代の想いは圧倒的な意味を持った言葉となり、朋也に伝えられる。
 朋也は言葉を失ったまま、ただ聞くしかなかった。

「朋也。私は、お前のことが好きだ」

 彼女の、告白を。








 続く







 あとがき

 前回から随分と間が開きましたが、ようやく第三話をお届けできました。
 ようやく伏線も回収し、トライアングルも出来あがったところですが、おそらく次が最終話となります。まださっぱり終り方が決まっていませんけれど。
 実を言うと、『想い、巡らし』を書き始めた理由として今回のラストシーンが書きたかったということがあったりします。ですから、ようやく書けた、という気持ちです。本来なら第二話でここまで書く予定だったのですが……第二話と第三話で予定よりも随分と文章量が増えています。
 『想い、巡らし』に関してさらに詳しいことなどは、日記の方で書きたいと思っていますので、良ければそちらの方も覗いてください。
 ちなみに、今回は次の話の書きあがる時期は指定しない方向で……。