「……失恋、か……」

 すでに花が散ってしまった桜の木を見上げながら、彼女はつぶやいた。
 胸の内に密やかに抱いていた、淡い恋心。彼女にとって初恋であるそれは、たった今、その相手によって、告白することさえ出来ずに終わってしまったのだと、彼女は悟った。





 『想い、巡らし』 第一話





 平日の、始業時間が迫った校門前。特に早く学校に着く用事のない多くの生徒達が、登校する時間帯。
 そんな生徒達の流れの中、坂上智代は一人、立ち止まって桜の木を見上げていた。 
 桜に特別な思い入れのある彼女は、朝にいつもこうしてぼうっと見上げている。この学校に転校してきてさほど時間がたったわけではないが、これはすでに彼女の日課となっていた。
 見上げるその顔は、いつもよりも生き生きとした印象を受ける。というのも、彼女は今朝から機嫌が良かったためだ。
 今日は夢見が良くすっきりと起きられたことや、出掛けに見てきた朝のニュースで今日の運勢が一位であったこと、お弁当が上手に出来たことなどもあり、今日がとてもいい一日になる予感がしていた。

「よう、何してんだ」

 そんな彼女に声がかけられる。それは、彼女にとって少し意外な人物であった。
 声をかけられることが、ではなくその人物が朝から来ていることが、だが。

「うん、ちょっと桜を見上げていた」

 不意の出来事に心が弾むのを感じつつ、彼女は声の主、岡崎朋也へと振りかえる。
 普段ならば遅刻し、朝から会うことの出来ない朋也。そんな彼に声をかけてもらったことで、自然と笑顔がこぼれる。

「おはよう、岡崎」
「ああ、おはよう」

 そう、この時点までは確かに智代にとって素晴らしい一日であった。
 朋也の隣に立つ、見知らぬ女子生徒の姿を確認するまでは。

「お、おはようございます」
「あ、ああ、おはよう」

 その女子生徒に挨拶をされ、困惑しつつも挨拶を返す。しかし、智代の頭の中では『?』マークが飛び交っていた。
 疑問を視線に込めて朋也に向けると、承知したとばかりに朋也が頷く。

「ええと、二人とも初対面だよな。智代、こいつは三年の古河渚。演劇部の、まあ部長だ」

 次に、女子生徒――渚のほうへと向き直る。

「古河、こいつは坂上智代。二年生で、生徒会に入ろうとしている奴なんだ」
「生徒会ですかっ。それはすごいです」
「いや、まだ入ったわけではないんだが……そちらこそ部長を務めているんだろう、信頼されているということじゃないか」
「あっ、いえ……」
「どうした?」

 何かを言いよどむ渚に、智代は怪訝な顔をする。

「実は、そのことでお前に折り入って頼みがあるんだ」
「頼み?」
「ああ、演劇部は実際には存在しないんだ」
「そうなのか? 確かに、部活紹介などでも聞いたことがなかったと思ったが」
「実は、部員不足で去年廃部になってな。それを、こいつが再建したいと思っているところなんだ」

 ぽん、と朋也が渚の頭に手を乗せる。

「けど、部員は最低三人はいなくちゃ部として認められない」
「ふむ……それで、部員は集まったのか?」
「いや、まだだ。そこで、お前に頼みがあるわけだ」

 智代は、なんとなく次の朋也の言葉を予測しながら待った。

「生徒会を変えて欲しい。お前が生徒会に入って、この時期の部員募集を認めるようにしてもらいたいんだ」
「ああ、なるほど。そういうことか」

 もっと直接的に、入部してくれ、といったようなことを言われるのかと身構えてしまっていた。そのことを智代は恥じる。
 朋也は、智代のことも尊重してくれていた。そして尊重した上で、隣にいる渚の為に頼み込んできたのだ。
 そこで、ふと疑問に思う。渚と朋也の関係を。

「すまないが岡崎、少しこっちへきてくれ」
「ん、どうした?」

 朋也の腕をとり、渚から少し離れた場所に移動する。渚は不思議そうな顔をしつつも、ついてこようとはしなかった。

「古河といったが……彼女はお前の親戚か?」
「? いや、血縁関係はまったくないと思うぞ」
「で、では、クラスメートとか」
「いや、一度もクラスが同じになったことはないな。知り合ったのはついこの間、しかも偶然だ」
「そうか……お前は、今朝は彼女と一緒に登校してきたのか?」
「ああ、まあな。最近は割と多いかもしれない」

 朋也に質問し、朋也がそれに答えるたびに、智代の顔は憂いを帯びていく。

「そ、その……そうだ、お前も演劇部に入っているのか?」
「いや……実のところ、入るつもりはないんだ」

 そこで、朋也が目を瞑り片手で顔を覆う。

「正直、俺は部活になんて興味がないからな。けど、あいつの頑張っている姿を見ると、なんか手助けしてやりたくなった。だから、俺は正式な部員が集まるまでの手伝いさ」

 朋也の言葉は、少しづつ智代を失意のそこへと引き摺り下ろそうとする。
 だから、智代は決定的な問いを放った。

「そうなのか。……それで、付き合っているのか……?」

 もうほぼ間違いのない事実ではあったとしても、はっきりさせることなく引き下がるわけにはいかなかった。
 しかし、それが身を引き裂くような思いで発せられた問いであっても、正しく意味が伝わるとは限らない。故に、朋也はこともなげに答えた。

「まあ、そういうことだ。なんて言うか、放っておけなくてな」

 朋也が照れたように頬をかく。実際、今まで怠惰に過ごして人と関わろうとしなかった自分が、こんな風に誰かの手伝いをするということ、そしてそれを誰かにいうことに、朋也は照れを感じていた。
 しかし、その様子も、智代にはのろけ話をする様子にしか映らなかった。
 無論、智代の言う「付き合っている」は恋人であることを示している。しかし、朋也の耳には「演劇部を作るのに付き合っている」という確認の問いに聞こえたのだ。

「……」
「どうした?」

 俯く智代に、朋也が声をかける。

「いや……お前に……そう言う人がいるなんて意外だったんだ……」
「ああ、まあ、傍から見ればそうかもしれないな」

 確かに自分が人助けをするなんて、自身でさえ驚きなのだから、傍から見ればどれほど驚嘆に値することだろう、と朋也は苦笑する。

「さて、あんまり時間もないし、そろそろ戻ろう」

 行きとは逆に、今度は朋也が智代の手を引っ張り、渚のいる場所へと戻った。

「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」

 朋也は渚と挨拶を交わした後、改めて智代のほうへ顔を向けた。

「で、生徒会の方はどうなんだ?」

 朋也が聞くと智代は俯いていた顔を上げ、一つ溜め息をついて話しはじめた。

「とりあえず、まだ私は生徒会に入っていないのでどうすることも出来ない。生徒会に入れるのは、5月9日の選挙で当選してからだ。それに、私が当選するとも限らない」
「おいおい、どうした? らしくなく弱気だな。お前なら当選するって」
「そ、そうです。坂上さんならきっと当選します。わたしも、応援します」
「ああ、ありがとう。だが、実際のところどうなるかはわからないが」

 どうしても、肩を落として否定的な考えを口にしてしまう。だが、智代がそうなってしまうのも仕方のないことではあった。

「大丈夫だって。お前だったら見栄えもいいし、性格もさっぱりしていて好感が持てるし、何より明確な目的があるんだろ。皆絶対、智代を選ぶって」
「すでに、相手がいたがな……」

 小さな声でつぶやいた言葉に、疑問の声が上げられるが、智代はそれを「なんでもない」と言って流す。

「古河、といったな。岡崎といて楽しいか?」
「え? ええと、はい」

 唐突に話が変わり、渚が困惑しつつも返事だけはする。

「岡崎さんと出会ってから、毎日楽しいことばかりです。ですから、その、これからもずっとそんな風に出来るといいです」
「そうか……」

 再び俯く智代を見て、こいつは何が聞きたかったんだ、と朋也が思う。
 智代はまた一つ溜め息をつくと、何かを決意したように顔を上げた。

「よし、なら互いに頑張ろう。私は生徒会、お前は演劇部の再建。自分の目標に向けて邁進しよう」
「あ、はい、わかりました。坂上さん、がんばってください。わたしもがんばります」
「うん……お前、良い子だな」
「いえ、そんな……坂上さんのほうこそ、立派です」

 二人の間に、和やかな雰囲気が流れる。
 と、そこで予鈴が鳴った。

「うわ、まずい。急がないと」
「あ、そうです。坂上さん、行きましょう」

 慌てる朋也と渚に対し、智代は首を振る。

「先に行っててくれ。私はもう少しここに居る」
「え、でも……」
「少し、そうしたい気分なんだ」
「はい、わかりました」

 強く誘うわけにもいかず、渚は引き下がる。
 そうして、朋也と渚は足早に向かっていき、智代だけが残された。
 一人残った智代のつぶやきは、二人の耳に届くことなく、風の中へと消えていった。





 しかし、智代は気付いていなかった。
 親しげに話をする様子、二人で行動を共にすること、相手のために何かをするということ。
 傍から見れば付き合っていると見えてしまうその様子が、自分と朋也の間でも、行われていたことを。



    ×     ×     ×



「なあなあ、岡崎」

 三時間目の授業時間。つい先ほど来たばかりの春原が、声を潜めて話しかけてきた。

「あん? なんだよ」

 ノートを取るわけでもなく、授業を聞くわけでもないので暇を持て余していた朋也が、それに応じる。

「いや、ちょっと噂で聞いたんだけどさ。本当かどうか確かめておきたくて」
「噂? なんか面白い話でもあったのか」
「僕としてはあんまり面白くないんだけどね……で、岡崎、智代ちゃんと付き合ってるって本当?」
「ぶはっ!」

 朋也が思わず吹き出し、その所為で教室中の視線が集まる。
 ちくちくと射す視線が痛かった。

「なんだ、岡崎?」
「すみません、なんでも無いです……」

 冷たい教師の言葉に、珍しく敬語で返す。余り中断するのも問題だとしたのか、教師はそれ以上はなにも言わず、授業を再開した。
 取りあえずもとの雰囲気が戻ってくるまでおとなしくしようとするのだが、春原が懲りずに話しかけてくる。

「なにやってんだよ、岡崎」
「うるせえ、お前がいきなり変なことを言うからだろうが」

 本当なら制裁も加えたいところではあったが、なんとか押さえておいた。余り教師の目に付く行動ばかりとっていると、ロクなことにならないからだ。

「大体なんでそんな話が出て来るんだよ」
「だから、噂だって」
「嘘つけ。何でそんなことが噂になるんだよ」

 確かにこの年齢、色恋沙汰に関しては良く話題に上るだろうが、自分と智代の関係が噂に、しかも交友関係の極端に狭い春原の耳に届くほどの噂になるとは、到底考えられない。
 そういう思いで反論する朋也に、しかし春原は怯むことはなかった。

「いや、智代ちゃんは注目の的みたいだしね。僕らもまあ、なんだかんだいって目立つし。その所為じゃない」
「そうじゃなくて、なんでそんな噂が流れてるんだ、って話だよ。そもそも、どんなやつが噂してるんだ?」
「なんか、ガタイがいいから、運動部のやつだろうね。男女ともいたよ」

 運動部、と聞いて朋也は考え込んだ。
 最近、運動部に関わったことを思い返してみる。
 すると、真っ先に思い出すことはあった。
 ちらり、と横目で春原を見る。そして、それをおいかけ、引きずっていくラグビー部の姿。

(全然関係ねえ……)

 考え直す必要があった。
 智代、そして運動部。そこに何かつながりは――

(ああ、そういえば)

 思い当たる節があった。
 先日、智代が柔道部に勧誘されているところを、朋也が助けたことである。
 そしてその時、話題にした憶えがあった。こんな風にすれば、まるで二人が付き合っているように見えるかもしれないと。
 そこで忠告したと言うのに、結局誤解を解かなかった所為で連中に付き合っていると思われたのだろう。

「なあ、その話をしてた連中、勧誘とかなんとか言ってなかったか?」
「ん、そうだねえ……そういえば、いってたかもしれない」

 なら、まず間違いないだろう、と朋也は思った。
 取りあえず真相は解明できたので、机に突っ伏す。

「っておい、岡崎、結局どうなんだよ?」
「ああ、誤解。以上」

 それだけ告げて、寝ることにする。
 なおも春原は何事かいってきたが、朋也はそれを無視してその授業を終えた。



    ×     ×     ×



 四時間目の授業中。
 大勢の人の気配があるにもかかわらず、ほとんど人影を見ることの出来ないある種奇妙な場所である廊下に、一人歩いている少女がいた。
 その優秀さ故に授業を受けることを免除されている、一ノ瀬ことみである。
 図書室にてすでに昼食を終えた彼女は、もうまもなく始まる昼休みの時間を過ごす場所へと向かっていた。
 人見知りが過ぎる彼女は、余り人の多いところが好きではない。以前は教室で昼休みが終わるのを持っていたが、出来ることならば、人の少ないのんびりできる場所が望みであった。
 とはいえ、この学校に彼女の友人が一人もいないかといえばそうでもない。数は少ないものの、気心の知れた友人はいた。そして、ほのかに思いを寄せる相手も。
 しかしその相手――岡崎朋也は、ここ数日忙しくなり、余り相手をすることが出来ないと事前に言われていた。もとより相手を思いやる性格であることみは、朋也に無理を言ってまで時間を作ってもらおうとはしなかった。
 それ以外の友人も、残念ながら都合が合わないということであった。
 その話を朋也から聞かされた時、続きの言葉があったことをことみは思い出す。



『ことみは資料室って知っているか?』
『それって、一階の?』

 数日の間忙しいといわれ、残念そうな表情をしている(本人はそれを隠そうとしているのだが、根が正直なのだ)ことみに、朋也は問うた。

『ああ、知ってたのか。その資料室にさ、今年になってから行ってみたか?』
『ううん、一年生の時に行ったきり』
『じゃあ、やっぱり知らなかったんだな……まあ、知ってたら、すでに仲良くやってるか』
『??』

 一人で納得する朋也に対し、ことみは疑問を深めていく。とはいえ、これは朋也自身が、敢えて伏せて語っているためでもあった。

『いやさ、昼休みにいっしょにご飯を食べられないだろ? だから、その間資料室にでもいったらいいんじゃないかと思ってな。あそこってさ、俺達が一年の時から、結構本が増えているらしいぞ』
『そうなんだ……』

 もちろん、これはことみに興味を持たせるための餌であった。朋也の真の目的は、ことみに資料室の本を読ませることではない。
 これは、昼休みに資料室にいる人物と、ことみを接触させるための計画である。
 ここ数日、演劇部で渚の手伝いをする傍ら、朋也はことみの友達を作るということも計画していた。
 しかしその成果はいまいちなもので、なかなか当初の目的通りとは行かなかった。
 藤林杏が言っていた、友人は頼まれてなるものじゃない、と言うのがその原因であったと、朋也も理解している。
 そこで彼は一計を案じた。それは、自分を直接的には介さず友人を作ろうと言う計画である。
 そうすれば、妙にぎこちないことになったりせずに、自然と友人になれるのではないかと考えたのだ。
 問題は人見知りをすることみが、果たして自分から仲良くなるかどうかであるが、そこはうってつけの人物がいた。
 優しく丁寧な物腰で世話好き、見ず知らずの相手ともすぐに打ち解けられるであろう雰囲気を持ち、更には資料室にある本を大事にしているという、ことみと趣味まで似通った少女、宮沢有紀寧である。
 彼女と資料室で出会った時、朋也はこの偶然に何らかの意味があるのではないかと、らしくなく思ったものだ。

『うん……行ってみる』
『おう。せっかくだから、ゆっくりしていくといいぞ』



 かくして、ことみは資料室へと歩みを進めていたのであった。



    ×     ×     ×



「岡崎さん、やっぱりもてるんですね」

 中庭でいつものように昼食を終えた後、渚は朋也にそういった。

「は? なんの話だ」
「いえ、その、やっぱり岡崎さん格好良いですし、優しいですから、当たり前ですよね」

 頬を赤くしながらも言葉を止めない渚に、朋也は困ったように頭をかいた。

「えーと、なんでそんな結論に至ったのか、さっぱりわからないんだが……」
「え、だって、そうじゃないんですか?」
「とりあえず、心当たりはまったくない」

 まさか、古河と色恋沙汰の話をすることになるとは……と、朋也は胸中で嘆息する。

「で、でも、岡崎さんて女の子のお友達いっぱいいます」
「え、そうか?」
「はい、藤林さんもそうですし、ことみちゃんもそうですし、今朝あった坂上さんもそうですよね」
「あー、まあ、確かに」

 指摘されてみれば、確かに最近は話相手が、女性である比率が高い。渚は上げなかったが、渚自身もそうであるし、資料室では有紀寧とも話をしている。まともに話す男性は、春原ぐらいなものだった。

「それで、その、岡崎さん、わたしのために無理をして時間を割いているんじゃないかと思って……」

 それを聞いて、朋也はなぜ渚がこんなことを言い出したのか納得した。直接的には聞いてこないが、彼女でもいたら自分は邪魔なのではないか、とかそういった類のことだろう。

「はあ、まったく、そんなこと気にすんなって。俺は別に俺の好きでやってるんだからさ。彼女なんていうのもいないし、お前のために無理をしているわけでもない」
「ですけど……」

 なおも何か言いたそうな渚に対して、朋也は渚の頭に手を置くことによって黙らせた。

「でも、は無し。お前が嫌じゃない限り、俺は手伝いを辞めるつもりはない」

 そして、渚の頭をなでる。

「は、はいっ、ありがとうございますっ。あの、絶対に嫌じゃありませんから」

 赤くなって主張する渚に、朋也は笑う。

「えっ、えっ?」
「いや、古河って、本当に年上には見えないなー、ってな」

 そうして、渚の頭をなでながら、朋也はひとしきり笑った。



    ×     ×     ×



 昼休み、宮沢有紀寧が資料室の扉を開けると、そこには珍しく先客がいた。

「あ、こんにちは」

 突発的な事態にもかかわらず、有紀寧は笑顔でもって挨拶をする。それに対して先客――ことみは、少しおどおどとしながらも、相手のやさしそうな雰囲気を見て挨拶を返す。

「こ、こんにちは」
「ええと、初めまして、ですよね。わたしは、二年の宮沢有紀寧と言います。有紀寧は、有終の美の有に20世紀の紀、それに丁寧の寧と書きます」

 言いなれた自己紹介をする有紀寧。対してことみは、おずおずと自分を指差し、ぎこちなく自己紹介をはじめる。

「ことみ。ひらがなみっつで、ことみ。呼ぶ時は、ことみちゃん。苗字は、一ノ瀬」
「はい、一ノ瀬ことみちゃんですね。よろしくお願いします」

 たどたどしい自己紹介にもひるむことなく、有紀寧が言う。

「よろしくお願いします、有紀寧ちゃん」

 ことみも安心したのか、控えめに笑った。

「ことみちゃんは、コーヒーと紅茶、どっちが好きですか?」
「えっと、紅茶」
「はい、ちょっと待っていてくださいね」

 そう言いながら準備をして数分後。
 ことみの前にはソーサーに乗った紅茶が置かれた。
 ことみがそれを飲む様子を、有紀寧が対面から、自分の分の紅茶を置きつつ眺める。

「おいしい……」
「ありがとうございます」

 そう言って、有紀寧も紅茶を飲んだ。
 しばしの間、お互いに無言でカップを傾ける。
 半分以下にまで紅茶が減った頃、有紀寧が尋ねた。

「ことみちゃんは、本好きですか?」
「うん、とっても好き」
「そうなんですか。わたしもとっても好きなんです」

 有紀寧が、まわりにある本棚を見渡す。

「ここは、昔は図書室だったんですよ。今は新しく図書室が出来ましたけど、わたしは今でもここを図書室だと思っているんです。第二の図書室です」

 目を閉じて、そういった。それは、この場所に対しての深い思いを表しているようであった。

「有紀寧ちゃんは、いつもここにいるの?」
「はい、休み時間は大抵ここにいますよ。この第二図書室の図書委員です」
「そうなんだ……。私も、名誉図書委員やっているの」

 そう言って、いつも持ち歩いている図書室の鍵を見せた。

「わあ、すごいですね」

 ぱちぱちと、有紀寧が拍手を送る。

「ありがとう」

 照れながら、ことみは笑った。

「そういえば、ことみちゃんはここに来たのは、初めてですか?」
「一年生の時には来たことあったけど、最近は全然来てなかったの」
「そうなんですか。あ、じゃあきっと、あの本の事も知らないですね」

 そう言って、有紀寧は本棚のほうへと向かう。
 そして持ってきたのは、例のおまじないの本だった。

「それは?」
「色々なおまじないが載っているんですよ。とっても良く効くんです」

 そう言いながらぱらぱらとページをめくっていき、適当なところで止める。

「ええと……嬉しいハプニングが起こるおまじない?」
「あ、これに興味がありますか?」
「うん……ちょっと試してみたい」
「わかりました。これはですね――」

 おまじないに慣れている有紀寧が、身振り手振りを交えながらことみに説明する。
 今日の資料室は、とても平和だった。



    ×     ×     ×



 放課後。
 智代は、校舎の二階の窓からぼうっと中庭を眺めていた。
 朝以来、今日は一日何も手につかなかったのだ。授業はそつ無くこなしていたものの、いつもの活気が見られない。

(こんなことではいけないのにな……)

 今週末からは、選挙活動が始まる。智代には、無駄に出来る時間などそうそう無かった。
 しかし、そう思っていても、何時の間にかぼうっと考え事をしてしまう。
 朋也のこと、渚のこと、自分の気持ち、果てには今日の運勢が最高であるといった朝のニュース番組にまで、その思考は至る。とりあえず、あの占いはもう信じないことに決めていた。
 古河渚。彼女は、とても好感の持てる相手であった。朋也のことがあったとしても、嫌いになることなんて出来そうに無い。
 優しく、可愛らしく、一途でまっすぐで、頑張り屋。とても女の子らしく、自分にはない魅力でいっぱいであった。
 三年生になって演劇部の再建というからには、一・二年の時には何らかの理由で部活に参加できなかったのであろうと推測できる。それでもめげずに、自分の目標に向かっているのだ。
 そして、その姿が朋也を動かしたのだろう。春原のバカな行動に付き合って暇をつぶしていた朋也が、渚の手助けをすると言う目標を得ていた。
 その朋也の姿が眩しく見えて、智代は更に彼へと惹かれてしまった。

「はあ」

 もう、何度目になるかもわからない溜め息であった。
 好きだと気付いたばかりの相手にはすでに恋人がいて、更にその姿を見て好きになってしまったなんて、まるでループする輪の中に閉じ込められてしまったようだと、智代は思った。
 いいかげんに頭を切り替えないといけない、二人のことは応援してやり、自分は自分の目的を達成しなければ。
 そんな思いで頭を振り、今まで視線を向けてはいたが目には入っていなかった中庭を見やる。
 中庭には人がほとんどおらず、ここから見える限りでは一人の男子生徒と、彼と会話している女子生徒、離れてもう一人の女子生徒の姿だけが見える。
 ふと、気付く。男子生徒が朋也であり、離れた場所にいる女子生徒が渚であると。
 気付いてしまって、智代は朋也を観察した。未練がましい自分に呆れてしまうし、こういった行為はするべきではないとわかっていても、止める事が出来ない。
 そして――

「え……?」

 信じられないものを見たように、智代は声を漏らした。



    ×     ×     ×



 放課後の中庭を、朋也は歩いていた。
 いつもであれば、すぐに演劇部室のほうへ行って渚と対策会議を行うのであるが、今日は少し時間を遅らせてからいくと伝えてある。
 なかなか解決策が浮かぶわけでもなく、時間ばかりがすぎていくこと、それとことみの方がどうなったのか気になっていたりすることで、気分転換が必要だった。
 ふと、そこで前方にそのことみがいるのに気付く。

「朋也くんっ」
「ん、よお。ことみ」

 軽く息を切らせて朋也の前まで走ってくることみに、朋也が片手を上げて挨拶をする。

「どうしたんだ、そんなに急いで?」
「え、えっとね、朋也くんの、姿が見えたから、思わず走ってきちゃった」
「う……そ、そっか」

 そのまっすぐに向けられる言葉に、朋也の顔が思わず赤くなる。

「? 朋也くん、熱でもあるの?」
「え、いや、なんつーか……まあ、とにかく体はいたって健康だ」

 定番ではあるが、一般的には逆の立場で使われる台詞を言うことみ。

「よかった……あ、それでね、朋也くんにお話したいことがあるの」
「ん、なんだ?」

 予想はついていたものの、何も知らないそぶりで効き返す朋也。

「ええとね、お友達が出来たの。資料室であってね、有紀寧ちゃんって言うの」
「ああ、宮沢の奴と会ったんだ。へえ、よかったじゃないかことみ、友達ができて」
「うん、それでねそれでね、紅茶ご馳走になったり、おまじないの本を読んだりしたの」

 その途端、朋也の動きが停止した。

「……お、おまじないやったのか?」
「うん、えっとね……」

 ことみが、おまじないを再現しようとして動きをはじめた時だった。
 靴紐を踏んづけてしまい、不意にことみが朋也の方へと転ぶ。

「わわっ」
「うわっと」

 それを、朋也はうまい具合に抱きとめたが、朋也も態勢を崩し、二人は抱き合ったまま中庭に倒れた。
 それは傍から見れば、恋人同士の戯れのようにも見える。
 しかし、本人達にとっては心臓が恐ろしいほどに早く鼓動し、頭は混乱し、とてもそんな事を意識するどころではなかった。

(あ……朋也くんが……こんなに近くに……)
(う……ことみの体、やわらかい……)

 とっさのことにパニック状態である二人は、離れることも出来ずに抱き合う。

(とっても大きくて、暖かい……)
(髪なんてさらさらだし、肌はすべすべだし……)

 その離れずにいる姿が、いっそう恋人同士の雰囲気を演出していた。 

(包み込んでくれて、安心できて……でも、とってもどきどきして……)
(それに、なんか良いにおいするし……って、何を考えているんだ俺はっ)

 先に朋也が、なんとかパニックから抜け出す。

「え、えーと、ことみ?」

 しかし、未だにトリップしていることみには、朋也の呼びかけは通じなかった。

(ど、どうしようか……)

 強引に引き剥がすわけにもいかず、朋也自身離れ難さを感じている時だった。

「え……?」

 呆然とした呟きと共に、がさ、と草木が揺れる音がした。
 朋也が、慌てて音のした方を振り向く。
 そこには、呆然とした表情の渚の姿があった。

「ふ、古河っ!?」

 朋也と渚の目が合う。

「あ……ご、ごめんなさいっ」

 すると、渚は弾かれたように走り去っていった。

「あ、待てっ」

 咄嗟に朋也も追おうとする……が、朋也の上にはいまだ夢見る状態のことみがいた。

「こ、ことみ、おーい」

 声をかける。頭をなでる。揺する。ほっぺたをつつく。
 しかし、ことみはどこぞのヒトデ少女のごとく、まったく反応を返さなかった。

(ま、良いか。古河には後で誤解を解いておけば……)

 そう思い、ついでに渚以外に誰か人目がないか、あたりを見まわす。
 しかし、草木のはえた中庭にも、中庭を見下ろせる校舎の窓にも、人影を見ることは出来なかった。
 そして、朋也は安堵の息をつく。




 もし自分が、もう少し早くあたりを見回していたら、校舎の二階の窓になにが見えたのか、そのことを知るはずもなく。




 続け





 あとがき

 先の展開がさっぱり決まっていません。
 というか、この話ってヒロイン誰だろう?(汗)
 ちなみに、あんまり話数を多くするつもりはありません。全3話位に収めたいと思います。
 すでにこのサイトには、2つ連載ありますから、あんまり増やすのもどうかなと。いや、ラストは決まってないんですけど。
 それにしても、今年中に続きかければ良いな……(蝶弱気)