靴箱のところで智代と別れ、自分の教室へと向かう。
遅刻ギリギリの時間である校内はあわただしく、活気に満ちていた。進学校であり、真面目な生徒が多いこの学校であっても、そういった部分は普通と変わらない。
それにしても、智代が言っていた渚との約束ってなんだったんだろうか。それ以上に気になる方向へと話を進めてしまったから、結局詳しい内容を聞くことが出来なかった。
(ま、別にいいか)
大事な約束ならば渚のほうから言ってくるだろうし、渚に会うまで憶えていたら、その時に聞けばいい。別に、今すぐ何かしなければならないということもないだろう。
考えが一段落するころにちょうど教室につき、閉まっていた扉を開く。
それにしても、わざわざ朝のこの時間、いちいち教室の扉を閉めなくても良いんじゃないだろうか、と思う。朝はただでさえ出入りが多いのだから。
朝早く起きたためか、こんな些細なことにまで注文をつけたくなってしまう。俺はそんな事を考えながら、扉を開けたまま教室の中へと入った。
「あ、岡崎くん」
声をかけてきたのは、すでに登校していた藤林だった。もっとも、このクラスにおいて俺に声をかけてくるのは藤林と春原くらいなので、当たり前なのだが。
「よう、藤林」
「おはようございます」
「ん、藤林は調子はどうだ?」
「え? ど、どうって、普通ですけど」
「そうなのか……智代も平気そうだったし、もしかして俺だけなのかね」
「あ、二日酔いですか?」
「んー、まあ、そんなとこ」
適当なところで話を切り上げ、自分の席へ向かう。ちなみに、隣の席は当然空っぽだ。
座ろうとすると、気遣わしげな視線を向ける藤林と目があったため、大丈夫だ、というジェスチャーを送っておく。
実際のところ、シャワーを浴びたのが良かったのか、二日酔い自体は大分良くなっていた。なので、問題はその部分ではなく、むしろ朝早く起きたことによる眠気のほうだ。
俺はその眠気に逆らうことなく、机に突っ伏した。
チャイムが鳴り、やがて喧騒が小さくなっていく。そして、やはり何時の間にか閉まっていたらしい教室の扉が開く音が聞こえた。顔を上げると、担任が入ってきたところだった。
俺はそのまま体を起こし、頬杖をつく。といっても、真面目に担任の話を聞くためではなく、ただ単に眠れそうにないからだ。眠気は変わらずあったが、眠るにはまだ何かが足りないような感じがした。
強いて言えば、頭は眠ろうとしているのに、体の方は起きて活動しようとしている、という感じだろうか。
そのままボーっと担任の話を聞き流していると、ホームルームは何時の間にか終わっていた。担任が出ていき、一時間目の授業が始まるまでのわずかな休み時間、教室は再び喧騒に包まれる。
その様子をぼんやりと眺めていると、こちらへ向かって歩いてくる人影に気付いた。もちろん藤林だ。
「あの、岡崎くん、やっぱりつらいんですか?」
「いや、別に。大丈夫だって、ただ朝だから眠いだけだ。二日酔いは、大分良くなったから」
「そうですか、良かった……岡崎くんがいなければ、どうにもなりませんから」
「ん?」
怪訝な顔をする俺に対して、藤林は何処か緊張しているような面持ちで、さらに良く分からないことを言った。
「岡崎くん、今日から皆で頑張りましょう」
「へっ?」
思わぬ展開に、間の抜けた声で聞き返す。
「今日からって……何かあったか?」
「え、忘れちゃったんですか? 昨日、打ち上げの場で古河さんと約束したこと」
「あ……」
そういえば、皆がいた打ち上げで約束したわけだし、智代も知っていたのだから、藤林が知っていてもおかしくないだろう。しかも、どうやら藤林を含め、複数の人物がその『約束』とやらに関係しているらしい。
俺は嫌な予感が膨らんでいくのを感じながら、それが外れていることを祈りつつ、藤林をゆさぶって内容を聞き出すことにした。
「待った! その、もしかしてその約束は、頭文字に『え』がつくか?」
「『え』ですか……はい、つきますけど……」
「文字数は、四文字?」
「あ、はい、四文字です」
「お、終わりの言葉は、『き』だったりするか……?」
「はい、『き』です」
「ずばり言うと、その……」
「演劇、ですけど」
予感、的中。
「マジか……」
俺はうなだれると、再び机に突っ伏した。
「あの、もしかして岡崎くん、憶えていなかったんですか?」
ああ、確かに憶えていなかった。
つい、さっきまでは。
しかし、余り認めたくないことではあるが、そうやって約束の内容をつきつけられると、そういった記憶がわずかながらもあった。
「いや、一応憶えてはいるんだが……なんというか、記憶が曖昧でな。藤林は、その時の状況詳しく憶えているか?」
「ええ、一応憶えてますけど」
「あー、なら教えてもらえると助かる」
しかし、短い休み時間は、それだけで全部使いきってしまった。
そして次の休み時間、藤林の説明を聞くうちに、俺はだんだんと昨日の記憶を思い出していった。
× × ×
打ち上げが始まって暫くが経ち、ほぼ全員に酔いが回った頃のことだ。
『あ〜それにしても、こうやって皆でなんかやるってのは悪くないよな』
酒を飲みすぎて気分が良くなっていたことが、普段の捻くれた考えを押し流したのに加えて、やはり皆で勝利を掴み取ったという忘れていた爽快感があったためだろう、俺はそんな事を口にしていた。
あの怪我以来、こういった皆で一つの目標に向かって頑張る、ということに、俺はずいぶんと否定的になっていた。元々春原と気が合ったのもそのためだ。
しかし、オッサンに強引に連れ出された草野球は、くさっていた俺の気持ちを少しだけ変えてくれた。
『本当ですかっ、よかったです』
顔を赤くしながら満面の笑みで答えたのは、横に座っている古河だった。さほど飲んでいる様子はなかったはずだが、酒に弱いのだろう。
それにしても、こいつはずいぶんと嬉しそうだ。皆嬉しそうなのは変わらないが、古河は特ににこにこしている気がする。
『古河、ずいぶんと嬉しそうだな』
『もちろん嬉しいです。私は体が弱かった所為で、こうして皆さんと一緒に、何かをやり遂げる機会がありませんでしたから』
ああ、そうだった。俺と知り合ってからのこいつは、いつも一生懸命で、元気に頑張っているから、つい忘れてしまっていたけど、こいつはそんなハンデを背負っているんだ。
『でも、それだけじゃありません』
そういうと、古河は目を閉じた。
『私達は、今まで別々の道を歩んできました。そんな皆が集まって、いっしょに試合をして、そして勝つことができたんです。これは、すごいことです』
『確かに、寄せ集めで勝っちまうんだもんな』
『それもありますけど。私が言いたいのは、少し違うことです』
『ん、どう言うことだ?』
『出会ってからそれほど時間も経たないのに、私達は、こんなにも心を一つにすることができる仲間になりました。とても、大切な仲間に』
俺は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を感じた。
言われるまでは、まったく気付かなかった。
けれどそれは、古河のいうことが、意外だったからじゃない。むしろ逆だ。
俺達は仲間だった。何時の間にか、仲間だった。俺はそれを、疑問にも思わなかった。
皆、出会ったばかりだ。以前から知っているやつなんて、わずか数人しかいないし、そいつらに対しても仲間だなんて意識は持ったことがなかった。
けれど、今は皆、大切な仲間だ。それがどれほど奇妙なことであるか、古河に言われるまではまったく気付かなかった。
そんな自分に、また驚く。
……って言うか、なんかホントに頭が痛いんだが。
見ると、足元には何かの冊子があった。もしやと思って視線をさまよわせると、案の定、杏が投擲後の姿勢で、手をひらひらさせていた。
『な〜に渚とばっかり話してんのよ、朋也』
『いってえな杏っ、なにすんだよっ』
『あ〜もう、うるさいっ、ゴチャゴチャ言ってないで、あたしとも話しなさいっ』
杏は、もうすでにかなり酔っ払っているようだった。かくいう俺も、酔いで痛覚が鈍っているのか、痛みを感じるまでにずいぶんとかかったが。
一体何を投げたのか拾って確認しようとしたところで、オッサンが騒ぎ出した。
『うおー、俺の思い出の本がーっ! 何しやがるっ!』
『え、でもさっきは小僧と渚を引き離せっ、この俺様の青春の一ページで、っていってたじゃない』
『言ってみたものの、いざ投げられるとなんかむかついたんだよっ』
オッサンも酔っているのか、杏に対して無茶苦茶な抗議をする。
……いや、あの人はいつもああか。
『まあまあ秋生さん、年下の女の子相手にみっともないですよ』
早苗さんが諌め始めた。どうやら、早苗さんは酔っていないようだ。
それにしても、年下というか、娘と同い年くらい、なんだよなあ……いや、むしろ娘のほうが大きいんだが。
『秋生さんのほうがお手本にならなければなりません。さあ、本はまだまだありますよ。じゃんじゃん投げてください』
『おう、まかせろっ』
『って、酔ってるぅぅぅーーーーーーっっっ!』
『はい、酔ってますか?』
『いや、古河、お前じゃなくて』
『俺じゃねえんだな』
『わたしじゃないんですね』
酔っ払い夫婦は、そう言ってけらけら笑った。娘の方はといえば、小首を傾げて不思議そうな顔をしながらも、笑顔を浮かべている。
『ああ、もう面倒だ。なあ、これからは渚って呼んで良いか?』
『ええと……はい。じゃあわたしも、朋也くん、て呼んで良いですか?』
『ん、それで良いぞ、渚』
『はい、朋也くん』
『……』
『えへヘ……』
余り深い意味で言ったわけではなかったのだが、なんか照れる。
『だから二人の世界に入ってるんじゃないわよっ』
『そうだな、私もずっとほったらかしにされているのは、少し不愉快だぞ』
何故か、杏に加えて智代までもが割って入ってきた。
『そういうことなら、私も朋也くんとお話したいの』
『あ、あの……私も』
訂正、ことみと藤林もだ。
『せっかくですし、ここはわたしも立候補しておきますね』
『なんですかなんですかっ、風子も混ぜてくださいっ』
何やらもうわけがわからないが、更に追加で宮沢と風子だ。
『わくわく、わくわく……』
『いや、芽衣ちゃん、そんな心の動きを声に出さなくても……』
『いえ、本当はわたしも混ざりたいんですけど、さすがに年齢の差と距離の差はいかんともしがたいので……ならせめて、楽しませてもらわないと、損じゃないですか』
楽しむって、見世物なんだろうか?
というか、混ざるにしても一体なんの集まりなんだか。
それにしても、だんだんと詰め寄られている。俺は、助けを求めてまわりを見渡した。
すると、少し離れたところから、美佐枝さんと芳野さんが見ている事に気付く。
『若いって良いわねぇ……』
『ふっ、案ずることはない……愛は、誰にだって訪れる。人によって、遅いか早いかの違いはあるがな』
『また始まったか……んで、今回は何が言いたいわけ?』
『世界は、愛に包まれている。悲観することはないんだ。例え(ピー)歳になろうとも、愛する人と出会うことは出来るのだからな』
芳野さんの言葉に、美佐枝さんはにっこりと笑うと、その笑顔のまま芳野さんにドロップキックをかました。
……まあ、こっちには被害がこなさそうだし、とりあえず良いか。
春原は……あ、なんか隅のほうでいじけている。誰も相手にしていない所為だろうか。まあ、元から頼りにはしていないが。
オッサンと早苗さんは……さっきの様子じゃなあ。
ちなみに、本当に本を投げたりはしていない。さすがに冗談だったようだ。
仕方がない、ここはひとつ渚に何とかしてもらおう。
『そういえば渚、まだ演劇部の募集、やってるか?』
『え、あ、はい』
『じゃあさ、皆に入ってもらったらどうだ』
『え、でも……』
渚が何かを言う前に、俺は言葉を続ける。
『演劇やるのが夢だったんだろ。夢、叶えれば良いじゃないか。せっかく、こんな風に仲間が出来たんだからさ』
俺は割と必死だった。ここでうまく話の流れを変えることが出来なければ、一体どうなってしまうことか。
『はい……演劇はやってみたいです』
『なら、やれば良いじゃないか。なあ、杏』
『そうね。渚、やりたいならためらう必要なんかないじゃない。あたしも手伝うわ』
生来の世話好きという性格のためだろう、俺の誘いに、あっさりと杏は乗った。
『楽しそう。渚ちゃん、わたしもやってみたいの』
『わ、私も手伝いたいです。夢をかなえるお手伝い、させてください』
『あ、わたしも入部させてくださいね。せっかく皆さんと仲良くなれたんですから、もっともっと一緒の時間を過ごしたいですし』
『わーっ、風子も入部します。風子の力で、きっと素敵な劇にしてみせます』
続いて、ことみと藤林、それに宮沢と風子も乗ってくる。
想像以上にうまくいった。皆で力を合わせて勝利を掴み取り、なおかつ酒の入っている今日のこの場面というのは、おそらく勧誘のためには最高のタイミングだろう。
『生徒会のほうがあるので、私は入部する事は出来ないが、それでも出来ることがあれば協力しよう』
『わたしは応援しか出来ないですけど、渚さん達の舞台、見てみたいです』
『直接手伝うことは出来ないが……俺も、お前達の舞台を見てみたいな』
『あたしも同じ意見ね。今から楽しみだわ』
智代、芽衣ちゃん、芳野さん、美佐枝さんがそう言って後押しする。
『俺も入部するぞっ』
『秋生さん、生徒でなくては入部できませんよ』
『なーに、それくらい、俺様の変装技術にかかればちょちょいのちょいだぜ』
『それでも無理です』
『ちっ……仕方ねえ。そんじゃあ、俺も応援だけにしておいてやるぜ』
『はい。皆さん、ファイトッですよ』
……まあ、オッサンと早苗さんの場合は、素直に応援するより、こっちの方がらしいかもしれない。
『僕も僕も。演劇部入部するよ』
そして、最後に春原のやつも参加を表明した。
『って、お前隅っこでいじけてたんじゃなかったのか?』
『ふんっ、岡崎、お前だけ良い思いをしようったって、そうはいかないぜ』
『は? なんで俺がいい思いをするんだ?』
『またまた、とぼけちゃって。僕が入部しなかったら、男が岡崎だけになっちゃうじゃないか』
『ん、俺は別に入部するなんていった憶えはないんだが……』
『はあっ!? 何いってんの?』
俺の言葉に一番大きく反応したのは、杏だった。
『あんたが言い出したんでしょうが。あんたが入んないでどうすんの? ていうか、あんた副部長決定ね』
『は? なんでそうなる?』
『良いわよね、渚?』
『聞けよ、おい』
『え、ええと……』
話を降られた渚は、しばし迷った後、意を決したように言った。
『朋也くん……お願いできますか?』
……正直、まいった。
ただ話をそらすためだけにこの話題にしたのだが、こんな風に真剣に頼まれてしまうと、とても断ろうなんて気持ちはなくなってしまう。
確かに俺が原因なのだし、それに、本当にこんな風に皆で何かをやるのも悪くない、という気持ちもある。
『ああ、分かったよ』
俺はそう答えた。
歓声が上がる。皆が、喜びで沸きあがっていた。
元からめでたかった祝勝会は、更にめでたくなった。
皆が笑顔で、飲みなおす。酒の量も、皆最初のころより増えていた。
そのなかでただ一人、智代だけが少し寂しそうに笑っていた。
そして――
× × ×
「カオスが出来あがったんだよな……」
昨日の出来事のなかで、重要な部分を思い出し溜め息をついた。
それにしても、いくら飲む過ぎたからといって、こんな大切なことを忘れてしまうとは我ながら情け無い。もっとも、完全に忘れ去っていたわけではないのが、まだ救いだったが。
いや、それにしてもよく、渚の呼び方を変えたことを憶えていたもんだ。
まあ、何故か古河って呼ぶよりも、渚って呼ぶほうがしっくり来るからなんだけどな。
「あはは、大変でしたよね……」
「いや、酔ってしまったほうより、酔わなかったやつのほうが大変だっただろ。すまなかったな、藤林」
「いえ、そんなことないですよ」
藤林は、こちらがなるべく気にしなようにと計らってくれる。良いやつだが、損な性格だとも思った。
「そう言えば、昨日は結局確認し忘れたんだが……オッサンの本ってなんだったんだろう?」
「ええと、たしかパンに関する本だったと思いますよ」
「ふーん……って言うか藤林、お前って意外と抜け目ないな」
「え、ええと、そうですか?」
なるほど、そういうことにいろいろと気がつくから、自分から損な役回りになってしまう、というところなのか。
「それで、昼休みに全員演劇室集合だそうです」
「分かった、了解」
そうして、藤林は自分の席へと戻っていった。
3話