下心と思いやり



「……あちぃ」
 強い陽射しを受ける休み時間の教室にて、岡崎朋也は憂鬱そうにつぶやいた。
 季節は夏。夏休みを目前に控えた教室の中は、進学校の三年生ということで少しだけピリピリしている。
 隣の席は空席。朋也と同類である春原陽平は、まだ学校へは来ていない。退屈凌ぎになる遊び相手も居らず、かといって暑さで眠ることもできず、朋也はただただ机に突っ伏していた。
「朋也ー、なーにだれてんのよ」
 声をかけられて、朋也は顔を上げた。見ると、そこには友人の藤林杏、そしてその妹であり、同じく友人である藤林椋が立っている。
「いや、暑いからな」
「まあ、確かにね。流石にこんな風に暑くなると、ちょっとつらいわね」
 だるそうに答える朋也に、杏が同意を示す。
「岡崎くん、大丈夫ですか? あの、もしつらかったりしたら、冷たい飲み物でも持ってきますよ」
 その朋也の様子を見かねて、椋が声をかける。
「何言ってるの、椋。そんなこといって甘やかしちゃダメよ」
「で、でもお姉ちゃん」
「いや、杏の言う通りだよ、藤林。俺みたいな奴は、あんまり甘やかさないほうが良いぞ。でも、とりあえずありがとな」
「い、いえ、私の好きでやっていることですから……」
 朋也が礼を言うと、椋は照れながら答えた。椋がこのように気を配ることは良くあった。友人思いの優しい奴だ、と朋也はいつも思う。
「んで、なんか用か?」
 朋也は、杏に向かって問いかける。
「あ、そうそう。来週、海に行くわよ」
「は?」
 唐突な提案に、朋也は間の抜けた声を上げた。いや、提案というのは正確ではない。朋也が伝えられたのは、決定事項だった。
「何呆けた声だしてんの。とにかく、来週海行くから、あんたも来なさいよ」
 そうして、集合場所と時間が告げられる。
「なんなんだ、いきなり。つーか、普通誘うなら、日にちとか決める前に誘わないか?」
「あら、どうせあんたはずっと暇なんでしょ」
「うぐっ、まあそうだが……」
 朋也の抗議は、あっさりと杏に切り捨てられる。
(まあ、別に反対する理由はないんだけどな)
 なんとなく、相手の思うままというのは癪だった。
「まさか、断ったりしないわよね。こんな美少女二人が、誘ってるんだから」
「自分で言うと、ありがたみがないセリフだぞ、それ」
「お姉ちゃん、そんなこというと恥ずかしいよ」
「何よ、椋。もっと自信持ちなさいよ」
「でも、その……お、岡崎くんはどう思いますか?」
 椋に話を振られ、朋也は少々戸惑った。杏相手ならば茶化したりも出来るのだが、椋相手にそれは無理だった。
「えーと、そうだな……その、俺も杏の言う通り、自信もっていいと思うぞ」
 照れながら、少々恥ずかしいセリフを朋也は口にする。しかし、言われた椋のほうがもっと照れていて、顔を赤らめていた。
「とっ、ところで海の話だったな。なんで俺なんだ?」
「え、ええと、気軽に遊びに誘えるような暇人、あんまりいないじゃない。だからよ」
「ああ、まあそうだな」
 朋也の頭には、その暇人が一人浮かび上がったが、それはあえて言わないで置くことにした。
「それにほら、女の子だけじゃ、ナンパとかされちゃって困るでしょ。だから、あんたが適任なのよ」
「なるほど」
「あの、私からもお願いします。岡崎くんと、一緒に海に行きたいんです」
 姉とは異なり、妹のほうはずいぶんとストレートな誘い方である。朋也も、そういわれて悪い気はしなかった。
「ああ、分かった。俺も行くことにするよ」
 朋也が参加することを表明すると、姉妹は喜んだ。しかし、朋也にはある考えがあった。海に行くことに反対するつもりはないが、完全に相手の思うままというのもおもしろくない。朋也の頭にあったのは、先ほど浮かび上がった暇人の顔であった。


 その日の夜。朋也は、いつものように陽平の部屋に来ていた。
「岡崎、夏休みってどうすんの?」
「ん、お前はなんか予定あるのか?」
「ないから聞いてるんだよ……。なんか面白そうなこと無いかな、って」
「お前、寂しい奴だな……」
「うう、なら岡崎にはなんかあるのかよ?」
「ああ、海に遊びに行く」
「えっ!?」
 朋也の言葉が意外だったのだろう、陽平が驚愕の声を上げる。
「しかも女子とだ」
「ええっっ!!?」
 陽平にとっては、驚愕の二乗だった。
「まじかよっ。なあ、なあ、誰とだ?」
 陽平が、興奮の余りに朋也に詰め寄ってくる。とりあえず足で牽制してから、朋也は答えた。
「杏と藤林だよ」
「ふっ、二人もっ!?」
 陽平が、飛びのいて驚きのポーズを取る。漫画ならば、先ほどから連続で、背後に稲妻が見えそうなくらいであった。
「お、岡崎。いや、岡崎様。どうか、どうか、僕も連れていってくださいっ」
 今度は、土下座しつつ朋也の足にすがり付いてくる。
「お前、プライドないのな」
 うっとうしいのでとりあえず蹴りながら朋也がいう。しかし、この反応はある程度朋也の予想通りであった。
「まあ、別に俺はかまわないんだけどさ。発案者が杏の奴だから、杏を説得しないとな」
「そっか」
「とりあえず、どう言う風になるか考えてみろよ」
 言われた通り陽平は、杏を説得する場面をイメージしてみた。
 暫くすると、汗が浮き出てくる。
「あわれ、春原は海の藻屑と貸した……完」
「なんで死んでるんだよっ」
「あれ、杏に沈められるって言う結末じゃないのか?」
「難しそうだな、って思っただけだよ。ていうか、いくらなんでも、海に行きたいっていっただけで沈められるわけないだろ」
「いや、断られた春原は、こっそりと俺達の後をつけてきて、頃合を見計らって更衣室に侵入。しかし、皆着替え終えていて、結局成果は出せず。まあ、更衣室に侵入されたほうとしてはどっちにしろ最悪だから、春原はそのまま海に沈められる、っていう話だろ」
「それじゃあ僕ただの変態ですよねえっ」
 陽平の突っ込みで、とりあえず一区切りがついたのか、朋也は一つ咳払いをしてから話し始めた。
「で、話を戻すと、要するにお前がただ頼み込んでも難しいってことだ。とりあえず俺も助力するけど、お前を連れていくメリットを示したほうがいい」
「ん、どういうこと?」
「ずばり、キメ台詞はこうだ。財布係でも荷物持ちでもなんでもやりますから、どうか連れていってくださいっ、ってな」
「あの……それはちょっとツラそうなんですけど」
「大丈夫だって。杏だけじゃなく、藤林もいるんだからさ。あんまりひどいことにはならないだろ」
「そっか、そうだよね」
 陽平は、嬉しそうに声を上げた。



 次の日。
「却下」
 とりあえず普通に頼み込んだ陽平に対する杏の返答は、至極あっさりとしたものだった。それだけに、内容は違えようがない。
「え、えーと、どうしてかな?」
「陽平の場合、下心が見え見えだから」
「うっ……」
 言葉に詰まる陽平。それは、杏の言葉を肯定することにもなった。仕方なく、朋也は助け舟を出す。
「まあまあ、杏、いいじゃないか。せっかく遊びに行くんだからさ、ある程度人数いたほうがいいだろ。こんな風に遊びに行ける機会なんて、そうそうないだろうし、良い思い出になると思う。藤林も、そう思わないか」
 思いやりにあふれた言葉で、朋也は椋に同意を求める。
「え、わ、私ですか。私はその……そうですね、朋也くんの言う通りだと思います」
 そう答えた椋に、杏が小声で呼びかける。
(ちょっと、椋、本気で陽平も連れていくの?)
(岡崎くんもああ言ってるし、流石にこれで春原くんを追い返すのも、可哀相だし……)
(……はあ、分かったわよ)
 そして、杏が陽平へと向き直った。すかさず、朋也が陽平に小声で行け、と促す。
「荷物持ちでも財布係でもなんでもやりますから、どうか連れていってくださいっ」
「……ええ、いいわよ」
 プライドをかなぐり捨てた陽平と、朋也、椋によって、陽平の同行は認められたのであった。
 朋也は思った。これで、自分が荷物持ちや財布係をさせられることはないと。これが朋也の下心であった。



 そして、海へ行く当日が来た。
「あの、岡崎……」
「なんだ?」
 海へ向かって歩いている途中。陽平が朋也に声をかけてきた。
「荷物、すげぇ重いんですけど」
「でもまあ、お前が荷物持ちをするって言い出したんだしな」
「あんたの案でしょっ」
「でも、言ったのはお前だろ?」
「まあ、そうだけどさ……にしても、岡崎の荷物、やたらと重いんだよ。せめてこれだけ持ってくれない?」
 陽平が、朋也に向かって半透明のビニール袋を差し出す。買い物をすればもらえる、ありふれた袋だった。
「ちっ、一分で千円だぞ」
「金とんのかよっ、しかも高えよっ、つうかこれあんたのだよっ」
「だってこれ、重いからな」
「そうだよ、やたらと重いんだよ。岡崎、一体これに何入れてんの?」
「石」
「それって絶対嫌がらせですよねぇっ!」
「あ、もう捨てていいぞ」
「これだけのために持って来たのかよ……」
 石の入った袋を捨ててを捨たところで、先行する杏に呼びかけられる。
「二人とも、早くしなさいよ」
 もう暫く歩いて、4人は海へとついた。


「あの、春原くん、大丈夫ですか?」
「い、委員長……杏の暴走を止めてくれ……」
「あ、あははは……」
 陽平の言葉に、椋は苦笑いで返す。荷物持ちに続いて財布係として扱われまくった陽平は、大ダメージを受けていた。
 ちなみに、現在杏と朋也は泳ぎに行っている。パラソルの下に、陽平と椋だけがいた。
「ったく、このままじゃあ、本当にすっからかんになっちゃうよ」
「さすがに、それはまずいですね」
「うんうん、分かってくれるのは委員長だけだよ」
「では、こうしたらどうでしょう。春原くんのお金が、もうなくなってしまったということにするのは」
「お、さすが委員長。それなら大丈夫そうだ。……あ、でも、杏だったら財布の中も見るかも。委員長、預かっててくれない?」
「あ、はい、分かりました」
 そうして、椋が陽平のお金を預かってから数分後。杏と朋也が戻ってくる。
「ふー、つかれたわ。陽平、かき氷買ってきて」
「あ、俺の分も頼むな」
「いや、その……」
 当然のように陽平に頼む二人に対し、陽平は恐る恐るといった様子で告げる。
「お金、もうないです」
 すっと、二人に対してからの財布を見せる。二人から帰ってきたのは、呆れたような溜め息だった。
「使えないわね。それじゃあ朋也、お願い」
「俺かよ……まあいいや。かき氷ぐらいだったら買ってやるよ。藤林もいるだろ?」
「え、あ、いいんですか」
「ああ、これくらいはな」
 恐縮する椋に対し、笑顔を見せる朋也。
「でも、悪いですよ。それでしたら、私が岡崎くんの分を買います」
「いや、別に気にすることないよ。三人分くらい、どうってことないって」
「いえ、やっぱり岡崎くんの分は私が買います。私がそうしたいんですよ。いい、ですよね?」
 椋が、そっと上目使いで朋也を見る。その仕草に、朋也はドキッとした。
「あ、ああ。じゃあ、お願いするかな」
「はいっ」
 そんな朋也と椋の様子を、杏が複雑そうな表情で眺める。そこに、陽平が声を上げた。
「あ、あの〜、じゃあ岡崎は、僕の分を……」
「あん?」
「ひいっ、な、なんでもありません」
 朋也の目には、珍しく春原をひるませる光があった。
「ま、いいや。春原の分も買ってきてやるよ」
「あれ?」
 珍しく自分の頼みを聞いてくれた朋也に、かえって陽平はあっけにとられた。
 そうして、朋也と椋は海の家へと入っていく。
 その様子を見て、朋也に本心から接することの出来ない自分に、杏は人知れず溜め息をついた。


 4人で波打ち際で遊んでいたとき、椋が不意に足をとられ、前方へと倒れこんだ。
「わっと」
 ちょうど、すぐ近くに朋也がいたので抱きとめる。すると自然、二人は抱き合う形になった。
 触れ合った体と体。その部分から、互いの熱が伝わる。
 高鳴る鼓動を、朋也も椋も感じていた。
「ちょっと、いつまでくっついてるのよ二人とも」
 今日の指摘を受けて、はっと離れる二人。
「あ、あの、岡崎くん、ありがとうございました」
「い、いや、それより藤林、怪我はなかったか?」
「あ、はい。大丈夫です」
「そうか、そりゃ良かった」
 椋を除く全員が、ホッと一息をつく。椋だけは、今だ赤くなってどきどきとしていた。
(なあ、岡崎)
 と、そこで陽平が、朋也に対して耳打ちをする。
(なんだよ)
(うらやましいぞ、コンチクショー)
 心からの叫びだった。


 その後はつつがなく海での遊びも終了し、4人はそれぞれの家へと帰っていった。
「あのね、お姉ちゃん」
 藤林家への帰りがてら、椋は杏に対して話しかける。
「ん、どうしたの?」
「私ね、岡崎くんが好き」
 椋からの告白に、杏は軽い驚きをうけた。それは、決して椋が朋也のことを好きだったことに対する驚きではない。椋がそのことを口にしたことへの驚きだった。
「それでね、多分、お姉ちゃんも岡崎くんのことが好きだと思う」
「椋……?」
 今度は、怪訝な思いが杏を襲った。自分の朋也への思いが、椋にばれていることは、驚くほどのことではなかった。杏も椋の思いに気付いていたのだから。
「だからね、私、負けないよ。お姉ちゃんが相手でも、手加減してあげない。そんなわけで、お姉ちゃんも、頑張ってね」
 そうして、椋は杏へと笑顔を向けた。その笑顔に、杏は胸が痛くなった。
「ええ、わかったわ。あたしも、負けないわよ」
 杏も、椋へと笑顔を向ける。姉妹で笑いあっていた。
 そして椋は、胸中で先ほどの言葉の続きを語る。
(そうしないと、きっと私は後悔しちゃうからね。お姉ちゃんの気持ちを知っていながら裏切るなんて、私はそんな重荷は背負えない。だから、これは私のため)
 椋が朋也に気を配ったり、自信を持てといわせたり、ついつい意地を張ってしまう姉に反して一緒に海に行きたいとストレートにいってみたり、朋也の分のかき氷をおごってみたりといったそれらは、朋也の気を引くための行為であり、椋の下心であった。
 ここまでやっておいて、今更正々堂々なんて言うのはありえない、と椋自身思っている。だから、先ほどの杏に対する発言も、下心かもしれない、などと思ってしまう。何処まで本心が混ざっているかは、椋自身にもわからなかった。
 それでもきっとこれで良いのだと、姉の笑顔で、椋は信じられた。



 きっと、皆持っている下心。
 けれど、果たしてその下心で、自分のためだけに生きられるかというと、なかなかそうはいかなかったりして、相手のために何かをしてしまうことがある。
 それは、多分、下心と同居した思いやり。