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大きな手のひら

 一度目はつらかった。もう、立ちあがることはできないと思った。
 再び歩き出せるまで、ずいぶんと時間がかかった。
 だから、二度目はもう耐えられないと思った。




 芳野さんと話した。
「岡崎……。正直、なんといっていいかは分からない。お前の気持ちがわかるなんてことは、冗談でもいえない」
「……」
「だから、前を向け、何てこともいえない。お前の苦しんでいた姿は、ずっと見てきた。結局、なんの力にもなれずにだ」
 芳野さんは、苦しそうに視線を落とした。
「どうすれば良いのか分からない。どうにもできないのかもしれない。けどな、岡崎。これだけは憶えて置いてくれ」
 芳野さんは顔を上げ、俺を見つめた。強い、意思のこもった視線。
「俺は、おまえに生きて欲しい。前を向いて、生きて欲しい。それは、俺だけじゃない。公子も、風子も、職場の皆もだ。沢山の人が、お前に生きて欲しいと思っている」
「はい、ありがとうございます……」
 俺は、抑揚のない声で答えることしかできなかった。
 芳野さんは、迷うような仕草を見せた後、ポツリと言った。
「……お前に、ドライバーを借りていただろ」
 ああ、忘れていた。
 それは約束だ。いつかまた、あの場所へ戻るための。
「あの時いったこと、俺はそれを違えることはない。お前が戻ってきたら、返してやる。その時は、お前も返せよ」
「ええ、そうですね」
 届かない。
 芳野さんの言葉が、俺の心に光をともすことはない。
 けれど、それはきっとどうしようもないことで、芳野さんが悪いわけでも、俺が悪いわけでもないんだと思う。
「……こんなことを言うと、お前は不愉快になるかもしれないが」
 芳野さんは、再び目を伏せていた。
「渚さんや娘さんも、きっとお前のそんな姿は見たくないと思う。二人ともきっと、お前に前向きに生きて欲しいと願っているはずだ。今のお前の姿を見たら、悲しむんじゃないか」
 その言葉に、敢えて二人について触れた言葉に、芳野さんの優しさが見えた。
 怒りや憎しみですら、生きる為の力になるといったのは誰だろうか。
 この人は、きっと俺に殴られてもいいという覚悟で、二人のことを口にしていた。
 けれど、この不器用な優しさを見せる先輩に対して、どうしても怒りは沸いてこなかった。
 だから、代わりに口にする。
「そうですね……俺もそう思いますよ。けど、俺、分からないんですよ。俺自身が、生きたいのかどうか……」




 早苗さんと話した。
「朋也さん、食事はきちんととってくださいね。あなたが倒れてしまっては、悲しいですから」
「はい、いつもすみません……」
 惰性で生きることすらできなくなった俺に対して、早苗さんは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた。
 早苗さんだって家のことがあるし、今まで散々迷惑もかけてきた。その上更に迷惑をかけてしまっていることが申し訳なくて、俺はいつも言う。
「あの、もう大丈夫ですから、家のほうに戻ってください」
「ダメですよ、朋也さん。そんな顔して大丈夫なんて言われても、説得力がありません」
 そしていつものように、俺の申し出は断られていた。しかし、いつまでも早苗さんに甘えるわけにいかないのは確かだ。疲労がたまっているようだし、悲しいのは早苗さんだって同じことなのだから。
「いえ、それでもこれ以上甘えられませんよ。悲しいのは、俺だけじゃないんですから」
「なに言ってるんですか、朋也さん。子供は、親に甘えるものですよ。特に、息子は母親に甘えるって、よく言うじゃないですか」
 そう言って、俺に微笑みかける。
 早苗さんは、俺を息子だといってくれる。本当の子供のように接してくれる。俺は母親のぬくもりを知らなかったから、尚更なのかもしれない。
「ねえ、朋也さん」
「はい、なんですか?」
「渚はきっと幸せだったはずです。大好きな人と結婚して、その人の子供を産むことができたんですから。同じ女として、保証します。そして、汐も幸せだったはずです。ずっと大好きだったパパと、家族になれたんですから。これは、汐の成長を見守ってきた者として保証します」
 俺は、不安だったのだろうか。渚や汐を、幸せにできたかどうか。
 不安、だったのだろう。早苗さんに、こんなことを言わせてしまうほどに。でも、そう言ってもらえるのは、嬉しかった。
「ですから、朋也さんも幸せになってくださいね」
 早苗さんの気持ちが嬉しかった。それでも、俺の気持ちはぐちゃぐちゃで、どうすれば良いのか分からなかった。




 オッサンと話した。
「よう、小僧。元気か?」
「オッサン……」
「かあ、しけたツラしてやがんな。まあ、しょうがねえけどよ」
 オッサンは、顔をしかめてそういう。
「にしても、食うのぐれぇちゃんと一人でやれよ。早苗が心配してたぞ?」
「ああ、ごめん……。早苗さんにも、オッサンにも、迷惑ばっかりかけちまってるな」
「はあ、やっぱり弱ってんな、小僧」
 オッサンの言う通りだった。俺は、物凄く弱っている。目の前のこの人は、娘を失い、更に娘同様に育てていた孫を失ったというのに、自分を見失っていない。
 やっぱり、かなわない、と思った。
「オッサンはさ、強いな」
「あん?」
「渚と汐のことで悲しいのは、俺だけじゃない。オッサンも早苗さんも、とても悲しんでる。なのに、二人とも俺の世話を焼いてさ。二人とも強いよ。だから、迷惑かけてごめん。そろそろ、自分のことは自分でどうにかするよ」
「かあ、馬鹿だな、てめぇは」
 予想外の反応に、俺は戸惑った視線を向けた。
「強くなんかねぇよ。ギリギリのところでやせ我慢してんだ。俺達よりつらい奴が、泣くことも出来ねぇで、生きてるのか死んでるのかわからねぇツラしてんだぜ。せめて、そいつの前でくらいは気を使ってんだよ」
「そう、か」
 そう、二人がとても悲しんでいるのは分かっていた。そして、俺の所為で泣けないことも。だから、俺は余計に二人に申し訳がない。
「でもさ、それだったらばらしちまって良いのか?」
「ぐわっ、しまった。いいか小僧、今のは忘れろ。即刻記憶から消去だ」
「はいはい、わかったよ」
 苦笑する。例えそれが乾いたものでも、笑えることに感謝した。
「なあ、朋也」
 オッサンが、俺の名前を呼ぶ。これは、真面目な話をするときのオッサンの合図だった。
「こういう言い方は好きじゃねえが、俺にはまだ早苗がいる。まだ、守りたい奴がいるんだ。だから、多分お前ほど追い詰められちゃいねえんだろう。俺だって、幼いころ渚が死にかけたとき、もしもそのまま渚と早苗を失ってたら、とても生きていけるなんて思えねぇ」
 オッサンは、苦々しいというような表情で言った。
「後悔なんざいくらでもありやがる。けどな、渚が死にかけたあの日から、俺達は家族として精一杯やってきた。俺も早苗も、渚もな。それは、お前と汐も同じだろうが。だからな、例え悔いがあったって、笑っとけ。胸張っておけよ」
「……ああ、そうだな」
 俺は、頷いた。だが、本当はどうなのだろう。確かに、俺は渚と一緒に精一杯頑張った。これは、間違いなく頷ける。胸を張って良いはずだ。俺もきっと、渚の支えになることができたと思えるから。
 けれど、汐はどうなのだろうか。
 汐と家族でいられた時間は、余りに短かった。家族になろうと決心して、今までの時間を取り戻そうとして、精一杯頑張ったけど。本当に、あれでよかったんだろうか。胸を張って、誇れることなのだろうか。
「ま、結局はてめえで結論だすしかねえんだけどな。俺がなに言ったって、納得できねえだろ」
 それは、オッサンの言う通りだった。




 考えてみれば、汐とは一緒に海を見たことすらロクにない。
 唯一あるとすれば、あの岬。あの場所は、初めて親子になれた場所で、俺にとっても汐にとっても、思い出深い場所だった。けれど、寂しい風景だ。だから、そんな海しか見られなかったなんていうのは、悲しかった。
 渚との会話を思い出す。あれは、汐の名前を考えていたときのことだ。
『汐は渚から、時には引いて、離れることもありますが……でも、時がたてばまた満ちて、そばに帰ってきます。ずっと、それを繰り返して……私は汐を見守っていけます。どうでしょうか』
『でも、よく考えたら、渚より潮のほうが大きい存在だよな』
『そうですね。海ですから』
『そんな何もかもを包み込み、育むような……大きな優しさを持った奴になれるかな』
『はい……なって欲しいです』
 その会話の後、いつか皆で一緒に海を見に行こう、と二人で笑いあった。
 でも、結局俺は、そんなことすら満足に叶えて上げられなかった。波の打ち寄せる渚から、汐と一緒に海を見て、名前の由来を教えてやればよかったのに。母親の話をしてあげればよかったのに。
 それなのに、今になってから思い出す。
 やるせなくなって、家から出る。無け無しの金を握り締めて、駅へ。
 向かう先はあの岬。たった一度だけ、汐と二人で海を見た場所。




 一人で、海を見る。
 こうして崖の上から海を見ていると、不意に恐ろしくなる。
 ここから落ちてしまえば楽になるんじゃないか、などと考えている自分に。
 それがいけない事だって、わかっている。それだけはやっちゃいけないことだ。
 誰一人だって、そんなことは望んでない。俺自身も含めて。
 なのに、離れられない。嫌な考えが消えない。拒否しなければならないと、分かっているはずなのに。

 ――試して、見ればいい。
 ずっとその場所にいて、不意にそう思ってしまう。
 果たして、俺は本当に望んでいないのか。俺は生きたいのか、死にたいのか。守るべきものを二つも失って、それでもなお、俺は生きたいと思うのか。
 一歩一歩踏み出す。少しづつ、少しづつ。慎重に、慎重に。
 そして、後一歩。
 後一歩踏み出せば、俺はここから落ちる。そうなれば、おそらく助からないだろう。
 足を上げる。前へむける。伸ばす。そして、体重を前にかければ、俺は――
 俺は、死んでしまう。
「ああ……」
 足を戻す。そのまま後ろに下がる。崖の端から十分に距離を取って、俺は崩れ落ちた。
 出来るはずがない。死ねる筈がない。
 分かっていた。本当は分かっていた。
 生きたかったはずだ。生きて欲しかったはずだ。渚も、汐も、俺も。それは、今も変わらない。
 だから、自ら生きることを拒否することだけは、絶対に、絶対にできないんだ。


 暫く座りこんでいた。夕方になり、ようやく腰を上げる。
 俺は戻ることにした。まだ吹っ切れたわけじゃない。けれど、自分が死にたくないことだけは分かったから。
 また、仕事をすればいい。きっと、忙しさは俺を悲しみから遠ざけてくれる。それは余り格好いいことじゃないけれど、それでもこのまま腐っているよりは、ずっとずっとましなはずだ。
 歩く。あの旅行で、汐と一緒に歩いた場所。親子として歩くことができた場所。
 そして遠い日、俺が子供だったころ、親父と一緒に歩いた場所。親子として歩いた場所。


 花畑が見えてきた。
 来るときも思ったが、この場所にはロボットのおもちゃがあるはずだ。
 俺が初めて汐に買い与えたもの。汐はとても喜んでくれたけど、花畑で遊んでいる間になくしてしまった。それがとても悲しかったようで、ずいぶんと探してたっけ。
「……せっかくだ。探してみるか」
 そんな事をしても、意味なんてないと思う。けれど、なんとなく、それは悪くないことに思えた。
 花畑の中に入っていく。と、そこで中から声が響いた。
「あった……あったぞ」
 くたびれて、疲労をにじませた、それでも嬉しそうな声。それは、聞き覚えのある声だ。
「親父?」
 軽い驚きをにじませながら、呼びかける。
「ん?」
 親父が声を上げながら立ちあがる。どうやら、かがんで何か作業をしていたらしい。その所為で、親父の姿が見えなかったのだ。
「朋也、来ていたのか」
「ああ」
 うなずく。すると親父は、汚れた姿で、笑顔を見せながら近づいてきた。
「ちょうどよかった。朋也に渡すものがあるんだ」
「ん?」
「ほら、これだ」
 そういって親父が差し出したもの。それは、あの日なくしたものだった。
「これ……俺が汐に贈った……」
「ああ、初めてのプレゼントだったようだな」
「でも、どうして……?」
「汐が大層残念がっていたと、母さんから聞いてな。ずっと探していたんだ」
「そうか……」
 それは正直思いも寄らないことで、ありがたかった。
「ありがとう。汐も喜ぶよ」
「ああ……」
 俺の表情の所為だろうか。親父の表情にも、少し陰りが見えた。
「なあ、朋也」
 親父が、俺に目をむけて話し始めた。それは、とても真剣な口調だった。
「お前は、後悔しているか?」
 その答えは簡単だった。
「ああ……後悔している。もっとずっと、初めから親子として接していればよかったって」
「そうか」
 親父は、寂しそうに笑った。
「朋也、おれはな、いい父親じゃなかった」
 そういって、遠い目をする。
「そんな……そんなことっ」
「いや、いいから聞いてくれ、朋也。おれは敦子を失って、幼いお前を連れて二人で暮らした。生活が楽じゃないことは分かっていたつもりだったが、想像以上に現実は厳しかった。それでもな、おれはいい父親になりたいと思っていた。けれど、結局なれなかった。お前に迷惑かけてばかりでな。寂しい思いも沢山させてしまった」
「親父……」
 なんといっていいのか分からず、俯いた。早苗さんやオッサン、ほかにも沢山の人達に助けてもらってばかりいた俺とは、きっと比べ物にならない苦労だったはずだ。
 親父が俺へと向き直る。そして、俯く俺の頭に手を乗せると、くしゃくしゃと頭をなでた。
「それでも、お前はこんなに立派に育ってくれた。途中でおれは、お前の親であることを投げ出してしまったのにな。おれは、嬉しいんだ。朋也、こんな情け無い父親を許してくれてありがとう。立派に成長してくれてありがとう」
「父さん……」
 頭をなでられるなんて、何年ぶりだろうか。
「それでな、朋也」
 それは、とても懐かしくて、暖かかくて。
「おれから、お願いがあるんだ。親として」
 まるで、幼いころに戻ってしまったかのような気分になった。
「生きてくれ。生きて、幸せになってくれ。前を向いて、生きて欲しいんだ」
 視界がぼんやりしている。風景が良く見えなかった。
「母さんの気持ちが良く分かったよ。いくつになっても、子供は子供なんだな。自分のことなんかどうでもよくて、子供に幸せになって欲しいと思うんだ。もう、お前は立派な大人なのにな」
 気がつけば、俺は泣いていた。頭に置かれた手のひらが、とても温かかった。
「親ってのはな、いつでも子供の幸せを願ってるんだ。つらそうにしているお前を見るのはつらい。お前には、ずっと笑っていて欲しいんだ」
 ああ、この人は俺の親で、俺はこの人の子供なのだ。
 それは、生涯変わることのない事実。昔は、それを疎ましく思ったこともある。でも、今は感謝する。
 なぜなら、分かったから。
 親が、子供の幸せを望むように。
 子供も、親の幸せを願っているんだって。
「ありがとう、父さん……ありがとう」
 精一杯の感謝の言葉。自分の幸せを願ってくれる父に。幸せであれと自分が願う父に。
 きっと、そういうことなんだ。
 俺が父さんの幸せを願ったように、渚がオッサンや早苗さんの幸せを願ったように、きっと汐も俺の幸せを願っていた。だから、きっと俺は胸を張って良いんだ。
 汐と親子でいられた時間は、とても短かったけど、満足に旅行もできなかったけど、ロクに海も見れなかったけど。
 でもきっと、胸を張って良いんだ。俺は汐のことが大好きで、汐も俺のことが大好きだったから。
 手の中にある、ロボットのおもちゃを、そっと握り締めた。
「俺、もう大丈夫だ」
 顔を上げて、親父の顔をしっかりと見る。親父は、微笑んでくれていた。




 俺は、これからも生きていく。
 きっと、これで良いんだよな、汐。
 なあ、そうだろ、渚。