だっしゅ


「はぁっ、はぁっ」
 俺は荒い呼吸を繰り返した。息が切れているのを自覚する。なまった身体は疾走しようとする気持ちに追いつかず、気持ちばかりが空回りする。
「はぁっ、はっ、ひぃっ」
 横を見ると、荷物を抱えた春原が、同じようにバテバテになりながら走っていた。体中から、疲労があふれているように見える。おそらくは、俺も同じようなものだろう。
「はっ、もっ、もっ、ダメ……」
 情け無い顔をしながら、春原は限界を訴えてきた。見る見る動きが鈍くなり、スピードが落ちる。
 気持ちは俺も良く分かった。というか、もういいんじゃないか。大体、なんで走らなくっちゃいけないんだ? 俺はもう疲れた。終わりで、ゴールで良いんじゃないだろうか……。

ガンッ

「ひぃっ!」
 朦朧とし始めた俺の意識は、ものすごい勢いで飛んできた「それ」によって、再び浮上させられた。正確にいえば、春原の顔を掠めて飛び、どこかの家の塀にめり込んで鈍い音を立てた辞書によって。
「ひいいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃっ」
 一度は止まりかけた春原が、生命の危機を改めて感じることによって、荷物を持ったまま再び速度を上げて走り出す。ちなみに、掠めた頬からは、微量の赤い液体が流れている様子が伺えた。
(って、俺も他人事じゃねえっ!!)
 別に春原が狙撃されている間、立ち止まっていたわけではなかったが、疲労から速度を落とし、しかも後方を見ていたのは事実だ。しかも春原が再び全力で走り始めたため、俺は追いぬかれている。間違いなく、現在は俺のほうが標的にしやすいだろう。
 疲れた体に鞭打って、速度を上げる。がたが来ている体は、それでもなんとか動いた。
「ま〜ち〜な〜さ〜い〜」
 後ろから聞こえてくる狙撃者の声。それはまだ甘美な誘惑にはなりきらず、恐怖という感情を呼び起こして、走ることの推進力となる。この恐怖心が疲労に負けたときこそ、生死をかけた鬼ごっこの終わりだった。
(ああっ、休みてぇっ)
 半ばどころか、九分九厘までやけくそになりながらも走る。
「はっ、ひぃっ、ギ、ギブアップ……」
 と、全力疾走がたたったのだろう、春原がすぐに力尽きていた。まあ、それでも立ち止まっているわけではないが。
 なんにせよこれはチャンスだ。とにかく春原がばてているうちに、距離を稼いでおかなければならない。
(ああ、でも)
 疲労と酸素の薄さとでまともに働かない頭が、唐突に疑問をうかべる。
(なんで俺、走ってるんだっけ……)
 いや、決して唐突というわけでもなかった。むしろ、極めて自然な疑問だ。
 働きの鈍い頭は、理解していたことを忘れ、何を忘れていたのかを考え、忘れていたものを疑問という形にするという不必要な労働を、手間と時間をかけて行っていたということだろう。
(ええと、確か……)
 あれはそう、昼休みの始めだ。
 何処からか収入があったといってやけに羽振りの良かった春原は、昼飯をおごってくれるといってきたんだ。しかも、学食ではなく、学校近くの定食屋で。
 当然その申し出を受けた俺は、春原と二人で学校を出ようとした。そして、校門のところにあのウリボウ――ボタンがいたんだ。
 遠目から見たことはあっても間近で見るのは初めてだった春原は、ボタンを抱き上げ、例によって例のごとく、鍋の話なんかをしやがった。しかもかなり具体的に。こいつは本気で食うつもりか、と思った矢先のことだ。
 当然のごとく、すさまじい速度で辞書が飛んできた。が、意外なことに当たりはしなかった。まあ、外れた、というよりはわざと外したといったほうが正しいだろう。
 恐るべき命中精度を誇る杏の辞書攻撃だが、流石に春原がボタンを抱えたまま倒してしまえば、ボタン自身にも被害が及びかねない。それを考慮しての、威嚇といったようなところなのだろう。
 とにかく、辞書が飛んできた後杏自身が走って追いかけてきた。その形相を見て、俺と春原は一目散に逃げ出したのだ。その際、校舎のほうから俺達を呼びとめるような声も聞こえた気がしたが、追って来る杏を目にしては声の主を確かめることもできず、さっさと逃げ出した。
 そして追いかけっこが始まった。杏は時折辞書による攻撃を行うのだが、それで春原を倒すことはしない。あくまでボタンの身の安全を優先しているのだろう。それがなければ、とっくに春原なんて吹き飛ばされているところだ。
 現在に至る経緯をつらつらと列挙して、俺は改めて現状を認識した。ボタンを抱えた春原は、今は俺のわずか後方にいる。杏の一番の目的はあくまでボタンを取り戻すことなのだから(二次的な目的は敢えて考えないようにしておこう)、このまま春原を犠牲にして、なんとか俺だけでも――
 と、ここまで考えたところで、なぜか違和感を憶えた。
 なぜ俺が走っているか、その疑問の解答が、先ほどの経緯だったはずだ。しかし、そこになにかがひっかかる。
 逃げているのは杏が追ってきているからで、杏が追ってきているのはボタンで、ボタンを抱えているのは春原で、結果的にボタンを抱える春原を追っているわけで、杏が殺気だっているのは春原がボタン鍋の話をしたからで――要するに、春原が全ての問題なわけで。
「……俺、関係ないじゃん」
 息も絶え絶えにつぶやいた言葉は、もうかすれてすらいた。
 とにかく、原因がわかったなら対策も練ることができる。俺は遅れている春原にあわせて、スピードを落とした。
「春原っ、パスだっ。そいつをこっちによこせっ」
「お、おう。まか、せた」
 流石に持ったままは知るのは大変だったのだろう、春原がボタンをこっちになげよこす。ずいぶん疲れてはいたが、逆にその所為でスピードも落ちていたため、ボタンをキャッチするのは、特に難しいことではなかった。
 俺はそこで足を止める。その瞬間、全身を今まで以上の疲労感が襲った。
「はっ、はっ、はっ」
 上がりきった息を、短い周期で呼吸を繰り返して整えようとする。とはいえ、実際に整うまでには暫くかかるだろう。思わず崩れ落ちそうにもなるが、まだここで倒れるわけにはいかない。もはや一歩も歩けそうにない体に鞭打ち、後ろを振り返った。そこに、春原を追ってくる杏の姿が見える。
 杏に対してボタンを掲げ、目が合ったところで俺はうなずいた。杏も俺の意図するところが伝わったのだろう、うなずき返す。
「えっ、えっ、あれっ?」
 急に立ち止まった俺に釣られて、同じように立ち止まってしまった春原だけが、疲れた表情のままおろおろとしていた。

ドゴッ

 なかなかすごい音を立てて、確かな破壊力を持った広辞苑が春原に激突した。そのまま崩れ落ちる春原の表情に、何処か幸福感を感じたのは俺の気のせいだろうか。
 ……まあ、気にしないでおこう。とりあえず、俺のほうは鬼ごっこから開放されて良かった。
 それにしても、春原の奴は、ボタンが杏のペットだと知らなかったのだろうか。人質(?)として、今まで曲がりなりにも春原の命をつないでたボタンを、こうも簡単に俺に渡すなんて。
(いや、知ってても渡すか。春原だし)
 そんな事を思いながら暫く待っていると、やはり息を切らせた杏が、俺達のところに追いついてきた。そこで俺は、ボタンをそっと地面において放してやる。するとボタンは嬉しそうに、杏の足元へと走っていった。
「よ〜う〜へ〜い〜。あんた、覚悟はできてるでしょうねぇ」
「ひぃっ。すいませんごめんなさいって言うかなんで僕こんな目にあってるんですかぁっ」
「あぁっ! 人のうちのペットを捕まえて鍋にしようだなんて、良い度胸じゃないの」
「ひぃっ、誤解っす」
「うっさい、死刑」
「な、情けは?」
「……分かったわ。じゃあ、選ばせてあげる」
「な、何を?」
「辞書の種類」
「ひぃぃっ」
「3・2・1・0はい時間切れ」
「ど、どうなるんですか……?」
「答えなかった場合は全部よ」
「う、うわあああぁぁぁぁぁぁ」

ドガッ、バキッ、ドゴッ……

 鈍い打撃音が聞こえてくるころになって、ようやく俺は軽く動くことができる程度に回復した。
 それにしても、あの二人はどうしてあんなに元気に動けるのか……謎だな。
 とりあえず俺は、近くに会った桜の木の幹に体を預けて座りこむ。体はまだまだ休息を欲していて、熱を帯びていた。汗も結構かいている。
 おそらく、3年前であったならば、ここまで疲労困憊になることはなかっただろう。人並みの青春を過ごしていたころ、運動によって得たこの熱はそのころのものだ。今の俺には似合わない。
(ふぅ、学校前の桜並木か)
 出鱈目に逃げまわっていたわけではなく、一応学校の周辺を意識して回っていたため、ここが終着点になったのは偶然というわけではなかった。
「朋也」
 だとすれば、これも偶然ではないのだろうか。見上げた先に、智代がいた。
「智代、どうしてここに?」
「ああ、お前と春原が校門から逃げていくのが見えてな。声をかけたんだが気づかないようだったから追いかけたんだ。けど、流石に追いつけなかった。それで戻ってきたところだったんだが、会えてよかった」
「そうか、あれは智代の声だったのか」
 智代は俺のほうに近づいてくる。多少離れた場所で倒れている春原や杏には、目もくれない。向こうは向こうで大変らしく、こちらのほうには気づいていないようだ。
 智代は、俺のすぐ隣に腰を下ろした。
 肩と肩がふれあい、服越しにやわらかい肌の感触が感じられた。ほのかな良い匂いが鼻腔をくすぐり、走りまわっていた所為とはまた違う理由で、鼓動が早まる。
「疲れているようだが、ずっと走り回っていたのか?」
「ああ」
 短く言葉を返す。呼吸は大分落ちついてきたものの、まだ多少粗さが残っていた。
「せっかくだから、飲み物でも用意しておくべきだったな。気が利かなくてすまない。先ほど、私だけで飲んでしまった」
「いや、そんなこと気にするな」
 こんなことは、普通ならば全く気に病むべきことではないだろう。だから、そう答える。
 すると智代は、俺に対して手を伸ばしてきた。その手が俺の頬に触れる。手は、先ほどまで飲んでいたという飲み物の影響だろう、ひんやりとしていて、心地よかった。
「……熱いな」
「ああ、散々走りまわったからな。お前の手は冷たくて気持ち良いな」
「そうか。だったらこのままでも、いいか?」
「ああ、頼む」
 そう言うと、智代は両手で俺の頬を包み込むようにしてきた。流石に態勢としてつらかったのだろう、俺の前に出て向き合うような感じになる。
(まるで、これからキスでもするみたいだな)
 そんな事を考えると、再び鼓動が高まってしまった。頬が赤く、熱くなるのを自覚する。
 やわらかくて冷たい手のひらが、頬に集まった俺の熱を奪っていく。俺が考えたことが見透かされやしないかと少しだけ心配になった。
(だがまあ、これが散々走りまわった御褒美だっていうのなら、悪くはない、かな)
 未だに続く打撃音と、怒りの声と、情け無い悲鳴とがムードをぶち壊してはいるが。
「それにしても、一体なぜこんなになるまで走りまわっていたんだ?」
「ん、春原の巻き添えだ」
「ふぅ、まったく、つくづく問題を起こす奴だな。あちらで春原退治をしている女性は、確か、朋也の隣のクラスの委員長の、藤林杏さんだったか」
 そう言って溜め息をつく。やはり、むこうのことに気づいてはいたらしい。まあ、当然か。
「まあ、あっちのことはどうでもいい。それよりも智代、その態勢つらくないのか? よりかかればいいのに」
 木によりかかった方が、智代としても楽だろう。もうそろそろ智代の手も暖かくなってきていたし、俺の顔から放しても問題はないはずだった。
 と、そこで軽く眠気を意識する。そして目を閉じた。
 虚脱感が気持ちいい。桜の木と智代に身を任せると、意識はまどろんだ。
「と、朋也? そ、その……それは、その……良いのか?」
 智代の声が聞こえる。今の俺にとって、それは子守唄のようなものだ。心地よいまどろみの世界に流れる旋律。それ自体の意味を汲み取ることは出来ない。
「ああ」
 だから、ただなんとなく反射的につぶやいた。
「そ、そうか……。うん、私も、実は意識していたんだ」
 もう、同じ位の熱になった手のひらが心地よくて。
「だから、その……嬉しい」
 智代の声が、心地よくて。
「では、いくぞ……」
 俺に体を預けてきた、智代の暖かさややわらかさが心地よくて。
 俺は、夢の世界へと――



(――えっ)
 完全に夢の世界に入ってしまおうとしていた瞬間、俺を現実世界につなぎとめたのは、唇に触れた感触だった。
 つい先ほどまでまどろんでいた頭は、やはり混乱している。唇に触れた感触、その初めての感触がなんなのか想像はつくけれど、純粋な驚きと混乱の前に、俺は少しも動くことができない。
 いや、それとも、動くべきじゃないと分かっていたのかもしれない。どちらなのかは、俺自身にもよく分からなかった。ただ、俺は目を開くこともないままじっとしていた。
「んっ」
 くぐもった智代の声が聞こえる。息がかかる。その吐息が熱い。智代の熱が、触れ合った互いの唇を通って、俺のほうへと伝わってきた。おそらく、俺の熱も、智代のほうへと伝わっていることだろう。
 時間がとても長く感じる。もしかしたら、止まってしまったのかもしれない、そんな事を思った瞬間だった。
「ああーーーーーーーーーーっっっっ!!!!!!!!!」
 耳を劈くような大きな声に、慌てて目を開く。智代も同じく慌てて、俺から離れた。
 声のした方向を見ると、春原をずたぼろにした杏が、全身から未だにほとばしる怒りを放出しながら――なんとなく、先ほどの怒りとはまた別な種類にも見える――こちらに向かってくる。
 何やら恐ろしいものを感じた。もしかしたら、あそこで転がっている春原のようにされてしまうのかもしれない。それだけは、はっきり言ってごめんだった。
「ちょっと、あんた達何やってんのよっ」
 顔を真っ赤にした杏が怒鳴る。こちらのほうまで歩み寄ると、智代を威嚇するように睨みつけた。
「なにをやっているとは? すまないが、どの事を指しているか分からない。昼休みに校外に出ることに関しては教師に許可を取ったし、あなたが春原を追っていた件とは、私は無関係だ。朋也との今の行為のことを言ったのなら、これは、その、合意の上だ」
「ご、合意ぃっ!?」
 と、杏の矛先がこちらのほうへと向かう。
「あ、あんたまさか、この娘と付き合ってるわけ?」
「あ、いや」
 杏に睨まれ、言葉を濁す。
「朋也は、合意してくれたんだろう?」
 すると、今度は智代がすがるように見つめてくる。
(……かわいい)
 不謹慎かもしれないが、素直にそう思った。
「どうなのっ?」
「いや、その、さっきやったのが合意ってのはたぶん違わないけど」
 まあ、とにかく、先ほどのキスに関しては、一応合意だろう。まどろみながらだが、とりあえず何か返事をした覚えがある。
(って、なんでこんなことになってるんだ?)
 訳がわからなかった。どうにも、まだ混乱から脱しきれない。
「じゃあ、付き合ってはいないのね?」
「あ、ああ」
 さらに杏に詰め寄られ、俺はコクコクうなずいた。なんでこんなに責められているのだろうか。
「じゃ、じゃあさ。もしあたしがあんたのことを……そのす、す……」
 杏が、突然もじもじと落ちつかない様子になった。赤みを帯びた頬は先ほどよりも、もっと赤くなっているように見える。
 ドキッとした。今まで杏に女の子らしさを感じることなんてなかったのに。
 赤くなって、緊張して、怯えながら、それでも希望を持ったように、こちらを見つめてくる視線。その視線を受けて、なんとなくこちらも落ちつかなくなる。
 やがて、意を決したのか、杏が大きく息を吸い込んだ瞬間だった。

キーンコーンカーンコーン

 予鈴がなる。昼休みは、残すところ5分のみだ。その予鈴に、杏も俺も一瞬気を取られた。特に杏は、絶妙のタイミングで入った邪魔に固まっている。
「朋也、予鈴だ。戻るぞ」
「あ、ああ」
 ただひとり冷静だった智代が伸ばす手を、俺は未だに混乱しつつしっかりとつかんだ。そのまま二人で走り出す。目指すは坂の上の学校。疲れた体に上り坂は苦しかったが、前を進む少女は力強かった。
「あっ、こらっ、待ちなさいっ」
 後ろから杏の声が追ってくる。あいつも散々走っただろうに、まだ余裕はありそうだ。疲れなど何処かに吹き飛んだようにかけてくる。
 奪われた熱は、何時の間にか戻っていた。高校生活は残り一年弱。いつの日か失った青春とやら。それがもしかしたら、この戻った熱みたいなものなんじゃないかと思った。そして、それを大事にしたいだなんて、柄にもなく考える自分がいて、なんとなく苦笑する。
 でも、それも悪くないと思った。




 ちなみに春原は、下校時間には復活していた。相変わらずすさまじい再生能力だった。