共感
Love&Spanner

 ざわざわと表現するのがぴったりな人々の喧騒。BGMは、最近の流行歌。
 時折聞こえてくるのは電子音。そっちのほうを見てみれば、見えるのはなんの変哲もないレジ打ちのアルバイトと客がいる。
 ボクはそれなりに人がいるCDショップの店内を、目的のものを探して散策していた。
 足を止めた場所は、インディーズのCDが置いてあるコーナー。このコーナーに目的のものは置いてあるはずだった。
 棚に陳列してあるCDを見ながら歩いていたボクの目にとまったのは一枚のCDだった。割と扱いが大きく、枚数もそろっていて安堵する。
 これを買って帰らないと、何を言われるか分かったものじゃないから、実は心配だった。それに、ボク自身このCDが買えなかったらがっかりしてしまう。
 一枚を手にとってレジへ向かう。それは、かつて一度だけ会ったことがあるミュージシャンのCDだった。



***



 物心ついたころには、なにも持っていなかった。
 ただ生きていくだけで精一杯で、毎日が過ぎていった。ボクが生きているその場所は、孤児でうめ尽くされている施設だった。
 子供は、生まれて暫くの間は親の庇護の元で生活をする。それは、大部分の人間にとって、至極当然のこととされている。
 ボク達は、親にそれを放棄された存在だった。親に疎まれ、存在することを許されず、見なくていい、関わりのない場所に隔離された。
 可哀相に、と世間は言う。でも、正直に言ってみれば、ボク自身にはそのことが良く分からなかった。
 ボクは親を知らない。親の顔も名前も知らないし、そもそも親というものが存在しているということ自体、幼いころはわからなかった。
 産まれてすぐに親に捨てられたボクは、親というものを実感できていなかったのだ。ボクが親というものを知ったのは、同じ孤児から聞いた話が最初だったと思う。
 親からひどい仕打ちを受けて、それから逃げるようにして施設へと入ってきたその子の話を聞いて、ボクは親というものが、悪い怪物みたいな存在なんだと思った。
 ボクは、その話を聞いて怖かったし、その子がかわいそうだとも思った。でも、ちょっとだけほっとしていたこともあった。
 ここは、きっと親がいる場所よりも安全なんだ。ボクは、親に捕まることがなくてよかった、と。
 けれど、施設だって決していい場所と言えるようなものではなかった。
 そこにいた子供たちの多くは、何処か歪んでいたと思う。特に、親からひどい仕打ちを受けた子供たちは。また、ボクのように親を知らない子供達だって、やはりおかしかったんだろう。施設では問題が絶えなかった。
 喧嘩が多かった。誰かを傷つけることが多かった。何かを壊すことが多かった。ある程度の年齢になった孤児が、より小さい孤児を苛めることがあった。それどもきっと親に苛められることよりはつらくなくて、他に行くところもなくて、皆じっと我慢した。
 職員の人達は、良くしてくれたと思う。精一杯の愛情を持って、ボク達に接してくれた。けれど、圧倒的に人数が足りなかった。
 そしてまた問題が起こり、その処理に忙殺され、責任を問われる。全ての子供たちになんて、とても目が行き届かない。結局、ボク達は子供同士で心を満たすしかなかった。
 でも、幼いボク達は愛し方を知らず、愛されることばかりを望んでいた。愛されること無しに、愛することは分からない。心の渇きがどうすれば満たされるのか分からず、問題は減らなかった。



 暫くの時間が流れた。ボク達は成長して、様々な知識を得た。恐かった年上の子は施設から出ていき、ボク達は恐れることなく過ごしていた。
 そんな中、ちょっとした出来事が起こった。
 最初にそれを聞いたのはラジオだ。そこから流れてくるものは、どうしてか心に響いた。吐き出すようなその声に、感じるものがあった。それは瞬く間に施設中に広まった。
 そうして届けられたのは、輝く円盤。それは光射す世界を見せる不思議なもので、まるで宝箱のようなものだった。このなかに、テレビやラジオで聞いたあの曲が入っていると思うと、わくわくした。
 黒いCDプレーヤにセットされ、再生ボタンが押された。すると、宝箱が開かれる。
 世界が変わる。流れ出る音楽。うたわれる詩。それはまるで光の世界。
 その歌は、生きるということをありのままに歌っていた。とてもとても素敵な歌。施設のホールはしんと静まり返り、歌だけが何処までも響いていくようだった。
 ボクはその歌を聴くたび、生きることに焦がれていた。ただ在るだけだった生を恥じるのだ。歌には生きることの喜び、つらさ、楽しさ、悲しさ、そんなものが詰まっていた。それが、どうしようもないほどに輝いていた。
 ボクは憧れた。その輝かしい世界に。精一杯生きるということに。そんな世界を作り出し、色々な人を勇気付ける人に。
 そのころから、施設の問題も少なくなっていった。誰かを傷つけることよりも、助けることのほうが喜びとなった。
 幸せを目指したいと思った。ボク達は生きる意味を与えてもらうことは出来なかったけど、自分たちでその意味を掴み取りたいと思った。




 ある日、施設にテレビ局の人がきた。それはちょっとしたドキュメンタリー番組で、ミュージシャンの人がファンの元を巡るというやつだった。
 それは、あの歌を歌っていたミュージシャンだ。ボクは、彼と直接話すことが出来た。そして教えてもらった。
 その人の生き方。彼は自分で、かつてロクでもない人間だったといった。けれども、自分には音楽があったから、こうして生きていられると。一つでいいから何かを信じて突き進めばいいと。
 その強さに憧れた。だから考えた。ボクが信じれるもの。ボクが誇れるもの。それが一体何なのか。そして、気づいた。
 ボクには、この足があると。
 それは蜘蛛の糸。何も無い世界から、皆がいる光射す世界への唯一の道。それを見失わないように、なくさないように、途切れさせないように、ボクは登っていく。精一杯走る。
 そうしたら、たくさんの人に誉められた。たくさんの人に、ボクが認められた。それは、とても嬉しかった。嬉しかったんだ。
 ボクは、生きているのだと実感した。
 走ることが好きで、毎日毎日走った。どんどん速く走れるようになっていって、そのたびに沢山誉められた。



 事件が起こった。とあるミュージシャンが逮捕されたという知らせ。ボクは、彼が輝く世界から落ちたと知らされた。その失望が、驚くほど軽くて、ボクはむしろそのことに戸惑った。
 それは、予想されていたことだった。最近の彼の歌は、明らかにおかしかった。かつての輝かしさは身を潜め、ただ醜さだけを浮き彫りにする歌。そこに希望はなく、ただただ暗い世界だけが広がっていた。
 憧れの人は、もはや天上の人ではなくなった。だが、気にしている場合じゃない。落ちた人など、見ている場合ではなかった。
 輝く世界は広くはない。光射す場所は沢山あるけれど、たくさんの人が、より光のある場所へと群がっている。強い光があたる場所は、本当に輝いている場所は、とても狭かった。
 負けられないと思って走った。ここまで来て落ちるのはごめんだった。早く、速く、はやく、ハヤク行かないと。焦って、頑張って、努力して、走って走って走った。
 そうしたら、糸が、切れた。
 転んだ。そのまま落ちた。
 断崖絶壁。取っ掛かりもなし。今まで支えてきてくれたもの、全てがどこかへ飛んでいった。その時になって、支えてくれたもの全てが、糸から枝分かれしていたと実感した。
 ボクは死んだ。足とともに死んだ。
 走れなくなったボクにもう存在価値はなく、誉めてくれる人はいなかった。認められることもなかった。
 それは、絶望だった。
 暗闇の中で、身体が死ぬまでの時間を過ごす日々が始まった。



 CDをいれ、再生ボタンを押す。流れてくるのは、一昔前の流行歌。テレビで流され、ラジオで流され、カラオケで歌われ、多くの人に聞かれ、やがて時代とともに流されていったもの。それでも、彼の歌はボクにとって特別だった。
 その時になって、なんとなく分かった。おかしくなっていった彼の歌。ただ醜さだけを露出していた歌。それはおそらく、今のボクと通じるところがあったのだろう。
 信じることのできる唯一のものが、信じられなくなったのだ。理由は分からなかったが、ボクが走れなくなったように、彼も歌えなくなっていたのだろう。それなのに、無理に歌ったから、彼は終わったのだ。



 とりあえず動くことが出来るようになると、ボクは退院した。旅をすることにしたのだ。見知らぬ土地、見知らぬ人。そんなところに囲まれていたかった。誰もボクを知らないところに行きたかった。
 そしてそれは簡単だった。ボクを気に止める人間は誰もいない。それはとても楽だった。
 誰もボクを知らないのだから、それは当然なんだ。そのことが、せめてもの安らぎになった。全てを失って、生きることそのものを否定されて、何も持っていない自分。それを責められないだけでよかった。
 何も持たずに生まれてきたボクは、このまま何も持たずに死んで逝く。
 それは、なんてふさわしいのかと、そう、思った。
 そうして流れ歩くうちに出会いをした。ボクは未だに暗闇の中で、見上げれば光射す世界。その光射す世界に生きている人達に。
 友達が出来た。走れなくなってから、初めての友達だ。
 恋人が出来た。走れないボクを、好きだといってくれた。
 明かりがともった。暗闇が少しだけ晴れた気がした。
 それでもボクは暗闇にいつづけた。逃れることは出来なかった。ボクはもう死んでいるんだから。
 走れるかどうかなんて、関係ないといわれた。それは素直に嬉しかった。でも、どうにもできなかった。この暗闇は決して晴れないと、そう思った。
 けれど、彼女は灯りを持ったまま歩いてきた。そして、ボクの傍らで立ち止まる。肩を貸してくれ、笑顔を向けてくれた。そして囁かれる言葉は、まるで呪文のよう。
 そうして、知った。
 光射すところへ行くのではなく、ボク達自身が輝くこと。
 それは小さな小さな灯り。けれども、世界はそれで照らされる。
 そうすると、進めた。暗闇の中で、一歩も動けなかったボクが、進むことが出来た。
 ああ、そうか。これが、愛なんだ。
 ボクは、ようやくそれを知ることが出来た。



***



「ただいまー」
 玄関のドアを空けて、中に呼びかける。
 狭いアパートの一室には、愛する家族が待っていた。
「おかえりなさい、勝平さん」
「パパー、おかえりー。おみやげはー?」
 期待に目を輝かせながら、開口一番におみやげを欲しがる我が子を見下ろす。それはとても子供らしい様子で、微笑ましかった。
「ほら、買ってきたよ」
「わーい」
 手に持った袋を渡す。するとすぐさま袋から取り出し、プラスチックの包装相手に悪戦苦闘し始めた。
 それを見て、またしても笑みがこぼれる。子供というのは、どうにも動作の一つ一つが可愛らしくて仕方がなかった。
 思わず抱きしめてしまう。
 すると、不満そうな顔をされた。
「パパジャマしないでっ」
 というか、邪魔とか言われた。悲しい。
 仕方ないので放す。我が子は再び包装除去の作業に没頭していった。
 やがてなんとか包装をとり、CDを取り出す。
 そしてCDがプレーヤーにセットされ、再生ボタンが押された。
 流れ出てくるのは音楽。とても素敵な音楽。歌っているのは、昔から大好きなミュージシャン。
 その歌は、確かに暖かく光っている。
 家族皆で、その暖かな歌を聴いていた。