その手が離れないように。
 決して、この手を離さないように。
 そうでなければ、この心ごと離してしまう気がするから。





『(YOU)ICO 』






 出会った時が勝負のとき。
 僕は来ヶ谷さんと対峙したまま、次々と投げ入れられる武器を見極めていた。
 目を凝らしてみれば、風船や恐竜のペーパークラフト、ごぼう、ラケット、ピンポンだま、3Dメガネなどが一瞬目の前をよぎるが、なかなか目的のものをつかむのは難しい。
 僕は覚悟を決める。

「ここだっ」

 タイミングを見計らい手を伸ばした。




 ガシャン



「……へ?」

 金属的な音がした。
 更にいえば手、正確に言うならば手首に違和感。
 目の前には伸ばした僕の手があり、その手首には、悪いことをした人がかけられる金属製でペアになっている腕輪がついてしまっていた。
 端的にいえば……手錠である。

「え……え……?」

 何で手錠が付いてるのとか、ちょっと重たいとか、本物なのかなとか、外れるのかなとか、ぐるぐるといろんな考えが頭のなかでから回ってまとまらない。

「え、ど、どうしよう?」

 はずしてみようと試みたが、ガチャガチャと手の周りを回るだけだ。
 うまい具合にはまってしまったのか、力を入れても取れそうにない。

「どうした、理樹君?」

 いつまでも戦闘準備に入らない僕をいぶかしんだのか、木の枝を持った来ヶ谷さんが近づいてきた。

「あの、これ……」

 左手にかかった手錠を指差す。
 どうしよう、外れるよね……。

「うぐっ」

 なぜか僕を見た来ヶ谷さんはのけぞった。
 体勢を立て直すと、心なしか少し顔を赤くして腕組みをする。

「はあ、少年。キミは衆人環視の前で私を悶えさせるつもりか?」
「へ?」

 ふう、と来ヶ谷さんが一息つく。

「なに、キミの弱りきった表情と、手錠という背徳的なアイテムの組み合わせが予想外の破壊力でな」
「いや、そんなこといわれても」
「そそるぞ、少年」
「嬉しくないよっ」
「む、そうか。残念だ」

 余裕を取り戻した来ヶ谷さんは、僕の左手を持ち上げるとしげしげと観察し始めた。
 すると、


カチャン


「え?」

 もう片方も腕にはまった。
 来ヶ谷さんの、手首に。
 というか、来ヶ谷さんが自分ではめた。

「な、なにやってるの?」
「うむ。唐突に理樹君と手錠で繋がれたい衝動に駆られてな」
「鷹揚にうなずかないでよっ」

 頭が痛くなってきた。

「なんだ理樹君。うら若き女学生に拘束具をはめて自分につき従わせるなど、ウハウハではないか」
「僕がはめたんじゃないしこんな風につき従わせたくないよっ」
「はっはっは。理樹君は意外とわがままだな」
「うう……はずれない」
「無駄な努力を健気にするな、理樹君。私には決して出来ないことだから、憧れてしまうぞ」

 僕たちは腕を上げ、改めて手錠を見やる。

「ふむ、普通の生活をしていればそうお目にかかることはないが、どうやら本物らしいな」
「え、じゃあまずいんじゃ……」
「案ずるな。この手錠は周囲にいる誰かが投げ入れたものだ。であれば、鍵も持っているだろう」
「あ、そっか」

 確かに、言われてみればその通りだった。
 さっきまでのあせっていた自分が恥ずかしくなる。

「この手錠を投げ入れた人ー、鍵を貸してくださいー」

 僕は腕を上げて周囲に呼びかける。
 だが、ざわつくだけで応える声はなかった。
 あれ?

「あのーすみません、この手錠の鍵を持っている方ー」

 あれ? あれ?

「えと、手錠を投げ込んだのはどなたですかー?」

 あれ? あれ? あれ?

「もしかして、いないんですかー」

 あれ?

「来ヶ谷さん」
「むう……どうやらいないようだな」

 それって、ものすごくまずいんじゃないだろうか。

「ということは、少なくとも鍵が見つかるか断ち切ることが出来るまでこのままということか」
「えええええ」
「となれば、風呂も食事も睡眠も、花を摘むときも一緒ということになるな」
「花?」
「うむ、それはだな」

 ぼそぼそと、来ヶ谷さんが耳打ちする。
 うう、来ヶ谷さんの息が耳にかかる。

「っ!!」

 内容を聞かされたとたん、ぼっ、と自分の顔が真っ赤に染まるのが分かった。

「そ、そそそそんな……」
「はっはっは。というのは冗談だ。まったく可愛いなキミは」
「じ、冗談?」

 ということは、何か手錠をはずす心当たりがあるのだろうか。

「理樹君。ここを見ろ」
「え?」

 来ヶ谷さんの指し示すところを見ると、手錠にタイマーとロゴがあった。
 手錠にタイマーなんて意外だ。そこには時間らしきものが出ている。しかし、表示が2:55なので現在時刻ではないだろう。
 ロゴのほうはよくよく見てみると、実は名前らしいことが分かる。
 マッド鈴木?

「少なくとも持ち主は分かった。周囲にいないのであれば仕方がない、さっさと探しにいこう」





*****




 まいった。
 結論から言えば、この手錠の持ち主と思しきマッド鈴木さんは見つからなかった。
 けれど、はずす方法は判明した。
 科学部の部員が、この手錠のことを覚えていたのだ。
 ただ、誰が投げ込んだかの経緯までははわからないという。
 ともあれ、はずし方が分かればあとは実践するだけなのだけれど。

「あと2時間40分かあ」

 そう。
 タイマー表示は残り時間。
 あの手錠は、設定時間まで外れないように作られていたのだ。
 つまり時間が来るまでは、僕たちは常に一緒に行動するしかない。
 お昼休みだったので、午後の授業をサボって人目につかないところにいれば、何とか被害は抑えられそうである。
 今は科学部の部室の前、特別教室棟だ。戦闘場所から近かったこともあり、あまり見られてはいない、と思う。
 とはいえ、果たして人目につかないところなんてあるのだろうか。

「さて、午後の授業も頑張ろうか、少年」
「うん……って、ええっ?」
「どうした、何を驚いている?」
「午後の授業って、もしかして出るつもりなの?」
「当然だ。学業は学生の本分だからな。であれば、授業に出席して勉学に励むのは当然であろう」
「いや、言ってることは正しいんだけどさ……」

 来ヶ谷さんが言うと、説得力がない。

「いくらなんでも、この状態じゃ授業どころじゃないよ」
「そのことなら問題はない」
「え、そうなの?」

 何がいい考えでもあるんだろうか。
 さすが来ヶ谷さん。

「席を替わってもらおう」
「って、そういう問題じゃないよっ」
「なにか他に問題でもあるのかね?」
「だから、そもそもこんな状態じゃ人前に出られないよ」
「ああ、そのことか。それなら安心したまえ」

 来ヶ谷さんの表情が、健気な少女が何か大きな決意をするかのようなものに変わる。

「彼の趣味は少し変わっていましたけど、それでも私の理樹君への気持ちは変わりませんっ。私、彼の全てを受け入れますっ」

 と、そこまでいって、普段の不敵な表情を浮かべた。

「と、私の気持ちを切に訴えよう。なに、合意であればなんら違法性のあることではない」
「人を勝手に特殊な性癖の持ち主にしないでよっ! というか僕が自分でつけたんじゃないよっ。あとそれじゃ普段とキャラが違いすぎるよっ」

 いやまあ、確かにそういう風な感じになれば、いつもの悪ふざけかと思われて流されそうな気がするけど。

「まったく、先程も言ったがキミはわがままだな。ではどうしたいのだ?」
「とにかく、人に見つからないところに隠れようよ」
「ほほう……では理樹君は、手錠で拘束した私を二人きりの場所に連れ込もうという魂胆なのだな」
「うぐ……間違ってはいないけど」

 なんだか、ひどく人聞きが悪いなあ。

「はっはっは。いやすまない。理樹君の反応が見たくてついな」

 来ヶ谷さんが朗らかに笑う。
 まったく、僕がどれほどどきどきしているかも知らないで。
 ちらり、と来ヶ谷さんを見やる。
 僕と違って、余裕のありそうな表情だ。
 さっきから考えないようにしているけど、僕たちはものすごく接近している。
 一つ間違えば、体のどこでも触れ合いそうなくらいだ。
 接触しないように細心の注意を払っているのだが、それでも距離の関係上、来ヶ谷さんから立ち上る熱を感じる。
 間接的な体温に、その存在を感じてしまう。
 それに、こんなに近くにいたら、来ヶ谷さんの吐いた息を僕が吸って、僕が吐いた息を来ヶ谷さんが吸っていたりするわけで。

「どうした理樹君。顔が真っ赤だぞ?」
「う、いや、なんでもないよ」

 顔を覗き込まれて、堪えきれずに目をそむけた。
 やっぱり、わかってやってるんだろうなあ。

「直枝さん、来ヶ谷さん。こんなところにお二人で、どうしたのですか」
「わっ! に、西園さん、こんにちはっ」
「? こんにちは」
「美魚君は教室に戻るところかね?」
「はい。もうお昼休みも終わりますから。お二人もそうなのではないのですか?」
「い、いや、その……」

 まずい。
 向こう側からやってきた西園さんは、僕達(というか僕)の様子を、訝しげな目で見ていた。
 まあ、自分でも傍から見れば怪しいだろうなあと思うけど。
 ちなみに、手錠のかかった手は後ろにまわして隠している。
 そのため、来ヶ谷さんと密着してしまい、先程まで空気を通して間接的だった体温が、服越しに感じられてしまい、もうどうしていいのかわからない。
 更に、僕の右手は来ヶ谷さんがとっさに後ろに隠すために、来ヶ谷さんの左手に握られていた。
 今まで来ヶ谷さんの手を握ったことがないわけじゃないけど、こんな状況下で、隠れるように握り合うと複合的な要素で、もう心臓がどこまでもアップテンポになっていく。

「次の時間は数学だからな。天気もいいことだし、こんな日に教室で数式をこねくり回すなど私の性に合わん。ということで、理樹君と午後のティータイムとしゃれ込もうと思ってな」
「なるほど、そうでしたか」

 動悸は治まらないけど、何とかほっと一息。
 僕が来ヶ谷さんに付き合わされることは今までにも何度かあったので、不自然ではないだろう。

「何なら、美魚君もご一緒するかね?」
「っ!!?」

 そ、そんなことしたら手錠のことがばれてしまう。

「直枝さん、そんなにショックですか……?」
「えっ?」
「少し傷つきました……」
「い、いやっ、違うんだよ西園さんっ」
「理樹君。女の子を泣かすのはいただけないな」
「来ヶ谷さんまでっ」
「わたしの気持ちを弄んだんですね……」
「違うんだよーっ」

 わたわたと、右手を振り回してどうにか誤解を伝えようとする。
 でも、そうしている間も来ヶ谷さんからは少しも離れない。
 しかし、西園さんは慌てる僕を見てくすりと笑った。

「冗談です」
「じ、冗談?」
「はい。お二人の邪魔をするつもりはありません。そんな風に、二人でぴったりと寄り添っているんですから」
「えーと」
「お付き合いされるんですね。おめでとうございます」

 ぺこりと頭を下げると、こちらの返事も待たずに「では」と言い残して西園さんは去っていった。
 心なしか、いつもよりも速度が早い気がする。
 って、呆けてても仕方がない。

「来ヶ谷さん、とにかくどこかに移動しよう」
「そうだな。では、いつもの場所に行くとするか」

 中庭に向かうべく、僕らは移動を開始する。
 が、なぜか僕の手はつながれたままだ。

「あの、来ヶ谷さん、手が……」
「ああ、今日の理樹君はいつもにも増してボーっとしているからな。おねーさんがしっかりと捕まえて置いてあげよう」
「うう、いつもにも増してって」

 それ、来ヶ谷さんがこんなに近くにいて、そっちに気が取られちゃってる所為なんだけど。
 そんな状態で手なんか握られっぱなしじゃますます――

「うわっ!」
「危ないっ!」


 バフッ


「わぷっ?」
「っとと、大丈夫か、理樹君」

 え、えーと。
 階段に差し掛かったとき僕が足を踏み外して。
 それで、来ヶ谷さんにつないでいた手を引かれて。

「わ、わ、わっ」
「どうした理樹君、足をくじいたか?」
「い、いや、それは大丈夫だけど」

 来ヶ谷さんに抱きとめられて僕の頭は、その、来ヶ谷さんの胸部にあった。

「この体勢は、ちょっと……」
「うん? おねーさんの胸がクッションになって、頭のほうは無事だろう。せっかくの機会だ、堪能するといい」
「〜〜〜〜っ」

 いや、そんなことを言われても。
 来ヶ谷さんの――おっぱいにはさまれてると、やわらかかったり温かかったり気持ちよかったりしてしまって、もう何がなんだか……。

「ふ、うんっ、理樹君、息が荒くなっているぞ」
「ご、ごめんっ」

 慌てて来ヶ谷さんから身を離す。
 うわあ、自分でも顔が相当熱くなっているのが分かる。
 は、恥ずかしい。

「理樹君」
「は、はいっ」

 な、なんだろう。

「気持ちよかったかね?」
「え、ええと、はい……」
「ああ、真っ赤になった理樹君は可愛いなあ。おねーさんならいつでもウェルカムだからな」

 うう。
 完全に遊ばれてる。





*****




「ふう」

 中庭についてしばらく。
 階段以降は特に大きな出来事もなく、かといってからかわれ続けるのは変わらない状況で僕たちはお茶を飲んでいた。
 5時間目に続き、6時間目も欠席。
 よくないことではあるけれど、今日ばかりは仕方がないと見逃して欲しい。
 とはいえ、こんなこと誰にも教えられないのだけど。
 時間は過ぎ、残りは1時間10分。
 でもって、僕は最大のピンチを迎えつつあった。

(うー、トイレトイレ)

 お茶を飲んだ所為だろうか。
 僕はしばらく前から尿意に襲われていた。
 しかし、いくらなんでもこの状況でトイレにいけるはずがない。
 かといって、残り時間を耐えられるかというと、かなり厳しい。

「どうした少年。そわそわしているな」
「う、ううん、なんでもないよ」

 ごまかしてみるものの、やっぱり僕は落ち着かない。
 貧乏ゆすりみたいなことをして、必死に耐えていた。
 こんなことじゃ、来ヶ谷さんには簡単にばれてしまうような気もする。


 キュピーン


 ん?
 何か今聞こえたような。
 そして、来ヶ谷さんの目が光っているような気がするのは太陽の反射かなにかなんだよね、きっと。

「なあ理樹君」
「な、何?」
「今からいきたいところがあるんだが、付き合ってくれ」

 なんというべきか。
 その時、ものすごくいやな予感がわいていた。

「ええと、どこに行くの?」
「うむ。さすがにこのまま中庭に居続けるのも難しかろう。皆が教室から出てくる前に、隠れられる場所に行くべきかと思ってな」
「そうなんだ」
「ああ。それでは女子トイレに行くぞ」

 瞬間。時が止まった。
 少なくとも、僕の中では。

「な、ななななな」
「ふむ、スリーセブンか。女子学生と一緒にトイレの個室にはいるなんて、まさに人生の大当たりということだな。理樹君も意外とオヤジくさいことを言う」
「ちがうよっ!」

 声を大にして否定する。

「いくらなんでも、それはまずいよ。僕が変態になるって」
「なに、ばれることはない。個室に入って鍵をかけてしまえばそこは密室のようなものだ。もしノックされたとしても、私が答えればいい」
「それはそうだけど、それならもっと別の場所でもいいじゃない」

 空き教室とか、寮に戻るとか、取れる方法はいくらでもあるはずだ。

「なあ、理樹君」

 ふわっと。来ヶ谷さんの空いている手が、やさしく僕の頬に当てられた。

「ごちゃごちゃいうな黙れ。さっさといくぞ」
「……はい」

 くちゃくちゃ怖い。
 観念させられた僕は、来ヶ谷さんに手を引かれ、利用者の少ない校舎の端にあるトイレに向かった。





*****




 残り時間50分。
 僕たちは女子トイレの個室の中に居た。

(何か、大事なものをなくしてしまった気がする……)

 嘆きたくなった。
 しかし、今僕の中を満たしているものは、残念ながらもっと衝動的なものである。

「なあ理樹君。我慢はよくないぞ」
「うう……」

 来ヶ谷さんから見ても、あからさまに分かるのだろう。
 自覚はある。
 張り詰めた風船は、洋式のトイレという処理先を見つけたことにより、躍起になって放出指令を訴えてきていた。

「まったく強情だな、キミは」
「普通だよ」

 どう考えても、ここで出来るほうがおかしい。
 しかし、来ヶ谷さんは納得しないのか、ふう、とため息をついた。

「もしこのままいるのであれば、今度私がキミにつける称号は、『お漏らし理樹ちゃん』ということになるだろう」
「なんでさっ!」

 激しく嫌だった。
 というか、漏らさなくてもつけそうなのがとても理不尽だ。
 いやとにかく、問題はこんな状態で出来るはずがないってことなわけで。

「来ヶ谷さんだって嫌でしょ。人にされて嫌なことはやったらいけないんだよ」
「ほほう。ではキミは、私がやればやるというわけか?」
「う、うん」

 理屈でいえば、そうなる。
 ……いや、何をいっているんだ僕は。

「む……」

 来ヶ谷さんが、かあっと赤くなる。
 なんというか、自分がとんでもないことを言ってしまったということに気付いた。

「キ、キミは時々大胆なことを言うな」
「い、いやその」

 売り言葉に買い言葉。
 いや、微妙に意味が違う気がする。

「ええと、反射的にいってしまっただけで、決してよこしまな気持ちはないんだけど、ああどういう風にいえば」
「反射的とは、考えて応えたわけじゃなく、正直に答えたと」
「確かに正直に言っちゃったけど、違くて」
「見たい、のか」
「なっ!!」

 一瞬自分の耳を疑った。

「どうなんだ、理樹君……?」

 赤くなった顔と、潤んだ瞳。
 なんというか、反則すぎる……。

「いや、その……見たいとか見たくないとかじゃなくて、それよりも見ちゃいけないというか、ただ僕は自分のことでいっぱいいっぱいで、でもそんなするのは、は、恥ずかしいし」

 そうだ。
 このやり取りで大部分の意識が取られている間でも、しきりに尿意は訴えてくる。いっぱいいっぱいなのだ。

「それは、体によくないな。では、もし私が先にすれば、理樹君もするか?」
「そりゃまあ……って、だからそうじゃなくて」

 なんといえば納得するんだろう。
 しかし、僕が言葉を続ける前に、来ヶ谷さんが一つうなずく。

「し、仕方がないな」

 な、何が仕方ないんだろう。
 ああ、だんだんなんだか変な気分に。
 もう、まともに顔が見られない。

「我慢は、本当によくないんだからな……」

 そういって手を動かす来ヶ谷さんを、僕はもう視線で追うことが出来ない。
 体ごとそむけて、見えないようにしているからだ。
 それでも、手錠が引かれるのとか、すぐ近くから聞こえてくる衣擦れ音とか、気配とかでかなり狼狽しまくっている。

(うあっ)

 左手に布の感触が触れる。
 これは、スカートだろうか。
 それが、下におろされていくのが分かった。
 それから、体重がかかり、便座がきしむ音。
 つまり、今僕の後ろ、30cmも離れていない場所で、僕と手錠でつながったままの来ヶ谷さんが

「理樹君、耳をふさいでくれ」

 待ってましたとばかりに、ばっと耳をふさぐ。
 これから、とうとう……そ、素数を――







 肩がたたかれる。
 僕は一瞬ビクッとしてから、振り返った。

「次は、理樹君の番だぞ」
「う、うん」

 ああもう、さっきからずっとお互いの顔は真っ赤だ。
 くるりと、来ヶ谷さんが僕に背を向ける。
 恥ずかしすぎて、羞恥心が麻痺している僕を阻む心因的要因は、もはやなかった。
 ベルトを緩める。ホックをはずす。チャックを下ろす。
 あとはズボンと下着を下ろして、便座に腰掛ける。
 便座カバーの付いていない白いプラスチックの便座にはぬくもりがあった。

(あうっ、こ、これって、来ヶ谷さんの体温)

 人肌の温もり。
 間接的に、僕は彼女のとんでもないところに触れているわけで。

(し、静まれ)

 尿意とは別の生理現象が発生した。
 割と最悪だ。
 こんな特殊なシチュエーションを好む性癖はなかったはずなんだけど、どうにも収まりそうにない。

「来ヶ谷さん、耳塞いで」
「了解した」

 左手を上げる。
 手は、来ヶ谷さんの長くてきれいな髪に触れてしまった。
 それでまた、僕はどきどきしてしまう。

(とにかく、早くしよう)

 押さえつけて、力を抜く。
 そうすると、少しばかり時間はかかったけれど、何とかうまく終えることが出来た。
 こうして、ようやく僕は尿意から解放されたのだ。
 まともに顔も見られないまま、僕らは手を洗う。
 トイレに隠れるというのはやはりただの名目だったのか、それからすぐに僕らはトイレを出た。






*****





 ビー

 放送室にきわめて電子的な音が響くと共に、ロックが解除される。
 数時間ぶりに、僕らは晴れて自由の身となった。

「んんっ」

 ぐうっとのびをする。
 腕が伸ばせるって、なんて気持ちのいいことなんだろう。

「やれやれ。ようやく自由になったな。これに関しては、私が返しておこう」

 来ヶ谷さんはいつものように腕を組んでいた。
 さすがに疲れたのか、嘆息をしている。
 その様子も、なんだか今の僕には非常に艶めかしいものに見えてしまって、まともに見られない。

「なかなか面白い経験だったが、やはり不自由なものだな。もし24時間になどしていたら、大変なことになっていたところだ」
「24時間は、さすがに勘弁して欲しいなあ」

 国家存亡の危機が片付く位の時間なわけだし。
 いや、今後は3時間でも遠慮したい。
 3時間しか時間がなかった割に、色々とその、大変なことがあったわけで。

 って、あれ?
 何か、おかしな発言がなかっただろうか。

「あの、来ヶ谷さん」
「どうした、理樹君?」

 質問しようとすると、じいっと見つめられた。
 ペースが戻ってきたのか、いつものように不敵な笑みを浮かべている。
 どうにもその顔をまっすぐ見つめるのが恥ずかしくて、目をそらしてしまった。

「やっぱり、なんでもない」

 そんな風に、ごまかしてしまった。
 はあ、きっと僕は疲れているに違いない。
 問い詰めようと思ったのに、来ヶ谷さんと見詰め合った瞬間、全然違うことを考えてしまった。
 ロマンチックな乙女でもあるまいし、この発想はどうかと思う。
 僕らが、赤い糸でつながっていてほしいだなんて。

「だが、私は君といられたのは楽しかったぞ」
「僕もだよ」
「そうか。そういってもらえると、嬉しいな」
「うん。……ねえ、来ヶ谷さん、手を出してくれないかな」

 いいながら、僕が先に手を出す。
 来ヶ谷さんは少し驚いたようだけど、こちらの意図を汲んでくれたのか、僕の手をとってくれた。

「やっぱり、繋がれるよりこうしてつなぐ方がいいな」
「ふふ、まいった。確かにそうだ。キミはすごいな」
「え、どうして?」
「なんというべきかな。理樹君が差し出す手は、私の憧れだ。理樹君の差し出す手はリトルバスターズの象徴のようなものだし、私には、そんな風に暖かい手を差し伸べることが出来ないからな」
「そんな……むしろ、僕が来ヶ谷さんに憧れているのに」
「そうか。うん、それは嬉しいことだな」




 繋がれるのではなく、僕たちは手をつなげる。
 好きな人にとらわれた心をなくさないよう。
 目に見える絆を。

















 あとがき

 大変でした。
 とにかくネタがでなくて、じゃあ苦し紛れに定番ネタだ、と手錠ネタにしたのですが、想像以上に大変でした。
 筆もいまいち乗らず、かなり四苦八苦しまして、ほぼ完成してもタイトルが思いつかないような始末。
 しかし、先日お勧めと情報を聞いたゲーム(ICO)をやってみたら、もうこれしかないと思いました。色々かけ離れてますが。
 決して手を離してはいけないアドベンチャーゲームなので、こんな具合です。
 他の面子で唯一美魚だけが登場しているのは、ICOから深読みすると敵に当たる要素=影がないからとかになります。
 あと、冒頭はキャッチコピー風に。けど、心としておきました。たぶん、科学部のポスターとかに書いてあるんだと思います。
 トイレのシーンは、もう色々見逃してください。
 タイトルはICOそのままではいけないので(YOU)ICOなのですが、ICOが偶像・象徴のICONからとられた名前ということで、あなたが憧れであるといった意味だったり、ICOを少し意識してますよだったり、そのまま唯湖SSですよだったりします。
 24時間にしようとしたのは本当だったのですが、無理に決まってますね。