果てしなく続く紺碧の空。

穏やかな景色が奏でる、夏の日の1ページ。

透き通る風が前髪を揺らす静かな午後の心地よい時間。

消えた約束と失われた世界が綴られた思い出の日記が、そんな景色の中で浮かんでは消えていく。

あれは夢のように儚く、そして幻のように脆く崩れ去った平和な日々。

全てを思い出すことは出来ないけれど、この胸に息づく決意だけは決して霞むことはない。


「詩人だな、少年」


 白いカーテンが風に揺られる教室で、誰かが僕にそう言った。

流麗な黒髪と大人びた容姿を持つ彼女を、ぼんやりと霞む視界の端で捕らえる。

見とれるほどに綺麗だと思う彼女は、僕がそう思っているとは知らずに言葉を紡いでいく。


「なんだ、驚かないのか?」

「うん、なんとなくだけど……いるかなって思ってたから」


 意外そうな顔をする彼女に、僕はしっかりと微笑む。

けれども来ヶ谷さんはつまらなそうに両肩をすぼめ、傍にあった椅子に腰掛けた。


「せっかく驚いた隙に抱きついてやろうと思っていたんだが。 理樹君はなかなかに手ごわくなったな」


 まったくもって不満そうだが、僕としては笑うしかない。

そんなことを言われても、そうですかと自分の身を差し出すような真似は僕にはできない。

あるいは恭介なら喜んで……いや、それはないか。

恭介の趣味はおおよそ来ヶ谷さんからはかけ離れているのだろうし。


「……なんて言ったら、恭介どんな顔するかな」

「うん?どうした、少年」

「ううん、なんでもない。ちょっと面白い悪戯を思いついただけだよ」


 それはとても小さな、けれども抱えきれないほど大きな悪戯。

誰かが笑っていて、僕もその中で笑っていて――けれど、それを見つめる目は喜びだけじゃない。

まるで母親のように暖かな瞳で戸惑っている。

その感情がなんなのかを知らず、ただ流れに身を任せることしかできない。

そんな彼女が心の底から笑うことができたのなら、それはとても幸せなことなんだと思う。

少なくとも僕にとっては。


「ねぇ、来ヶ谷さん。今が楽しい?」

「……ずいぶんと難しい質問だな。

楽しいといえば楽しいが、きっと理樹君が求める答えはその一言じゃないんだろう?」

「うん。でもね、今はまだ来ヶ谷さんが楽しいって思ってくれてるだけでいいんだ。

大切なのはこれからだから」


 そう、これから僕らは先の見えない道を歩き出す。

もうすぐ恭介が卒業して、その次の年には皆がそれぞれの未来を目指して羽ばたいていく。

来年、恭介がいなくなっても、僕らは変わらずに笑えるだろうか?

再来年、皆が離れてしまっても、僕らはそれぞれの場所で笑えるだろうか?

遠いはずなのに、嫌というほど目の前にある事実。

別に焦るわけじゃないけど、深く根を張る不安が拭えないのも本当のことだ。


「私にはよく分からないが、少年は悩んでいるらしいな」

「そう見える?」

「恭介氏と私には……と、いったところだな。

いつの間にか不安な顔を表に出さなくなったのは、私にとっては少しだけ残念だ」

「どうして?」

「不安そうな少年は実に可愛いからな。まるで誘われているかと勘違いするほどだ」

「……次からは来ヶ谷とは正面を向いて話さないほうがいいね」

「はっはっは、それはそれでぐっと来るものがあるぞ? 内気な美少女といった感じで実にいい」

「いやいやいや、なんだか色々と間違ってるよ。それに美少女って、僕は男だよ!」

「しかし少年、あの日の君は反則的なまでに可憐な少女だったのだよ?」

「……褒められても嬉しくないよ」


 そう言って拗ねるように横を向けば、案の定、来ヶ谷さんは満足そうな笑顔。

大人びた顔を持つ彼女の、少女のような顔。

それを見て、僕も満足して仕方がないかと小さく笑う。


「もうすぐ恭介氏が卒業する、悩んでいるのはそのことだろう?」

「半分正解かな。それで全部じゃないから」

「別れが辛いか?」

「辛くない別れなんてないよ。

でも、また会う日がとても楽しみになるから……それなら笑ってさよならが言えると思う。

僕らもいつかは離れ離れになるけど、僕らの絆が離れることはないよ」


 悲しいのも辛いのも、次に会うためなら我慢できる。

その日が来れば僕は泣いてしまうかもしれないけど、きっと最後には笑顔でいられる。

昔の僕ならあるいは泣くことしかできなかった。

でも、今は強く心に息吹く誓いがあるから、きっと最後は笑顔でさよならが言える。


「絆、か……。それがどんなに脆いものなのか、君は知っているだろう?」

「うん。でも、リトルバスターズの絆は絶対に失われることはない。

どこかで途切れそうになったら僕がそれをつなぎ止めるよ。どんな手を使ってでもね」

「……強くなったな、君は」

「小鳥はいつか巣立つものだからね。 僕も巣の中でずっと守られているわけにはいかないよ」


 僕は強くなった。それはきっと事実だろう。

今までの僕とは違うということは、自分でもはっきりと自覚することができる。

でも、それはまだ途中でしかない。

これから――そう、これから、本当の意味で僕は強くならなくちゃいけない。


「ふむ、巣立ちか。 ならば少年、君は飛び立った先の世界でどんな歌を紡ぐ?」

「それは僕にも分からないよ」


 未来のことは誰にも分からない。

でも僕は、その不安な行き先を目指すだけの力を皆からもらった。

だからきっと歩いていける。

でも――


「でも、その時、誰かが傍にいてくれたら……僕は迷わずにいられるかもしれないね」


 まだまだ弱いこの心はそんな弱音を吐く。

情けないと言われても否定できない。 僕はまだ強くはなってなどいないのだ。

人は急には変われない。そう努めても、現実を変えられるのは些細なことからだ。


「ねぇ、来ヶ谷さん。一つだけ我侭を言ってもいいかな?」

「ふむ、何かな?」

「今だけ……今だけ、ゆっくりと眠りたいんだ。

明日をしっかりと歩いていけるように、今だけはこの幸せを胸に眠りたい」

「……君は自分が望めばいつだって幸せの中で眠れるんだぞ?」

「でも僕はそれを望まないよ。これからは僕が幸せを作るから」


 甘えるのは終わりにする。

今まで甘えた分だけ前に進んでいく。

ここで甘えるのはきっとよくないことだけど、その分、明日は強くなってみせるから――


「しょうがないな、理樹君は。

今日はこの私が特別にたっぷりと甘えさせてやろう」


 来ヶ谷さんが僕の傍まで椅子を引き、二つの椅子をぴったりとくっつける。

僕は椅子に腰掛け、ほんの少しだけ来ヶ谷さんに寄りかかる。


「来ヶ谷さんは暖かいね……」


 安心するような心地よい日の光、頬を撫でる風。

喧騒とは程遠い静寂の世界、肌には大切な人の温もりを。










「ふむ、眠ったか」


 肩に寄りかかり、少年が穏やか呼吸で眠っている。

まるで子どものように幼い顔を見たのは、ずいぶんと久しぶりのことに思える。

あの事故から数週間、理樹君は変わったのだろう。

言われなければ気づかないような、それでも何かが大きく変化した。

その変化を一言でいえば、そう――強くなった、と言えるのかもしれない。

それが誰の望んだことであるにせよ、悪い変化ではないのだろう。

ただ一つ残念に思うのは、その変化が急すぎたということか。

子どもでいられる時間ほど短いものはない。

だからこそ、理樹君のような少年にはゆっくりと自然の流れの中で成長して欲しかったとも思える。

だが理樹君は変わった。

いや、変わってしまった。


「残念だと言ったのは本心なのだよ?」


 今日、少年はこうして私にお願いをしてきた。

しかし明日からそういうことはなくなるだろう。

それは残念――実に残念なことだ。

こうして甘えられることが嬉しいなどと、きっと理樹君は思いもしないだろう。

謙吾少年も真人少年も、理樹君に頼られることは少なからず悪いこととは思っていないはずだ。

少年は甘えることが許された、そういう人間だったのだから。

けれど、今は理樹君がそれを望んではいない。

でも――


「……君は言ったな、誰かが傍にいれば迷わなくていいと」


 それは少年にとって言うべきではない弱音だったのかもしれない。

誰にも言うまいとしていた一言だったのかもしれない。

だが、偶然にも私はその言葉を聴いた。

それは喜ばしい――実に喜ばしいことだ。


「今日だけとは言わず、いつだっていい。一人で何もかもを背負い込む必要などあるものか。

私たちは誰もが一人じゃない。君にも私にも、皆がいるじゃないか。

それに君を一人にするなど、この私が絶対にさせない」


 それでも強くなろうとするなら、それは誰にも止められないことだ。

だとしたら私がすることは一つ、私はやりたいことをやるだけ。


「約束しよう、理樹君。

もう一度、私からの約束だ」


 今は眠る小さな肩を抱き寄せ、その頬に唇を落とす。

幼い翼で飛び立つ小鳥が無理をして羽を痛めてしまわないよう、今はただ休んで欲しいと願う。

時間は限られているが、決して時間がないわけじゃない。

私は理樹君を起こさないように、理樹君のポケットから携帯を取り出して自分のものと一緒に電源を落とす。

実は教室の鍵を閉めていないので完璧とはいかないが、これで邪魔は入らない。

緩慢に過ぎて行くこの愛しい時間、長ければ長いほどにいい。

――さて、少年は目覚めた時、どんな顔をするのか。

このまま午後の授業を二人でサボってしまうのだから、色々と噂が立ってもおかしくはない。

少なくとも彼らは事細かに聞いてくるだろう。

その時、私はただ「二人だけの秘密だ」とでも言ってやればいい。

きっと少年は慌てふためき、久しぶりにおろおろとした可愛い姿が見られるだろう。


「…それは、楽しみだ…な……」


 どうやら温もりに誘われたのは理樹君だけではないらしい。

むしろこれほどの天気だ、眠らないほうがどうにかしているというもの。

日当たりは良く、窓からは心地よい風が。

隣には理樹君もいる。こんな好条件な寝床は他を探してもないだろう。


――おやすみ、愛しき人。


 窓の外には果てしなく続く紺碧の空。

雲がゆったりと風に流れる穏やかな景色が夏を奏でている。

白いカーテンを揺らす柔らかな風が前髪を揺らす、そんな静かで心地よい時間。

これは、そんな夏の日の1ページ。






end





あとがき

 遅れながらも執筆させていただきました。

お初にお目にかかります、モアイという者です。

今回の作品は、ただ純粋にこういうのが書きたかったと思って綴ったものです。

出来栄えはどうであれ、皆様に楽しんでいただければ幸いです。