『・・・好きなんだ』
 『え・・・それって』
 『うん・・・』
 『恋してる、って方の、好きだ』




 









   Have a nice day!!














 一日の始まりを告げるまぶしい朝日と共に、私は目を覚ました。
 ベッドの上、カーテンの隙間から漏れる太陽の光が、ちょうど私の顔の辺りへと差し掛かっており、ひどく目にしみる。
 ベッド脇の時計に目をやると、時刻はまだ登校するにはずいぶんと余裕のある時刻だった。
 私は悠然とした動作で起き上がると、やや寝ぼけた頭を覚ますため、顔を洗いに洗面所へと向かった。

 蛇口をひねる。
 勢いよく流れ出す水流にそっと手を差し出す。
 すると、心地よい冷たさが全身を駆け巡っていく。
 とても、気持ち良い。
 しばしその感触を楽しんだ後、両手を椀のように合わせ水を溜めていく。
 そうして溜まった水を一気に、豪快に顔へとかける。
 そうしてバシャバシャと何度か繰り返すうちに、思考がクリアになっていくのを実感する。

 手元に用意しておいたタオルで顔を拭いながら目の前の鏡を見つめる。
 そこに映る、やや切れ長の瞳。
 二つの双眸をじっと見つめ、一つ頷く。

「うむ、悪くない」

 タオルを洗い物かごに放り込むと、私は出かける支度をし始めた。
 


 いつもよりも早い時刻に目を覚ましてしまったせいか、なるべくゆっくりと用意したつもりが、まだまだ余裕のある時間帯だった。
 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、コップには注がずそのまま口をつける。
 ルームメイトがいる場合は共用となるだろうが、この点、一人部屋は実に気楽だった。
 あまり物の置かれていない、質素な自分の部屋を見渡す。
 と、壁にかけられたカレンダーに目が留まる。

「ああ、そういえば、今日は・・・」

 カレンダーで確認した日付。
 この日は、他の多くの人間にとってまったく特別ではない平凡な一日だ。
 だが、私を含めた幾人かの人間にとっては、ちょっと特別な日でもある。
 まあ、実際のところ、これまでの私にとってはやはり、他の多くの人間と同様、平凡な一日にすぎなかったのだが。



「おや、あそこにいるのは・・・理樹君か」
 
 少し早めに登校した私が廊下を歩いていると、窓から外の様子を見るともなくボーっと眺めている少年に遭遇した。
 一日の初めに彼に会わせてくれるとは、神様ってやつも案外気が利いてる存在なのかもしれない。
 とはいっても、私はほとんど信じちゃいないが。

 まあ、とにかく今日は良い一日になるだろう。
 私の勘がはずれることなど、滅多にない。
 早速声をかけることにしよう。

「やあ少年、ちょっといいか・・・っと?」
「理樹君理樹君〜」

 そこで、私が声をかけたのとほぼ同じタイミングで、反対側から小毬君が走ってやってくる。
 私の声がさほど大きくなかったせいだろう、彼は小毬君の方へと気をとられてしまう。

「あ、小毬さん、どうしたの?」
「えっとね、朝一で新しいお菓子のレシピに挑戦してみたんだけど、もしよかったら冷めないうちに味見してほしいな〜って思って・・・いいかな?」
「うん、もちろんだよ」

 そういって二人連れ立ってどこかへと行ってしまった。
 その姿を私はただ呆然と見送る。
 呼びかけた私の声は、差し伸ばした私の手は、誰に届くでもなく、朝の学園の喧騒へと呑み込まれてしまった。

「まあ、いいとするか」

 まだ、今日は始まったばかりだ。
 そう慌てることもあるまい。
 『急いてはことを仕損じる』というやつだ。
 そう自分に言い聞かせ、胸の中のモヤモヤを無理やり押し込み教室へと向かった。

 

 キーンコーンカーンコーン



 自分の席について本を読んでいると、授業開始を告げるチャイムが鳴り響く。
 その鐘がなり終わる寸前、姿を消していた二人が教室へと飛び込んできた。

「ふう、何とか間に合ったね」
「ご、ごめんねぇ。慌しくなっちゃって」
「ううん、気にしないで。ありがとう、おいしかったよ、お菓子」
「うん!」

 二人の会話が聴こえてくる。
 その声がやけに頭に鳴り響き、目の前の文字に集中できなくなる。
 
 いったい小毬君は何を作ってきたのだろう?
 理樹君はそれをどんな顔で食べていたのだろう?
 そしてその間、二人でどんな会話をしていたのだろう?
 
 そんな疑問が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
 チラっと二人を盗み見る。
 彼の笑顔が、何故か私の胸をきゅーっと締め付ける。
 
 ええい、わけがわからん!
 なんなんだこれは!
 とにかく原因が理樹君であることは間違いない。
 あとで精一杯とっちめてやることにしよう。
 からかって、からかって、赤面する少年をじっくり堪能することにしよう。
 そうだ、それがいい。

 そう決めると、溜まっていたモヤモヤが胸の中ですっと解けて消えていく気配を感じた。

 

 キーンコーンカーンコーン


 
 一限の授業が終わる。
 号令と同時にそれまで静まり返っていた教室が騒然とし始める。
 隣の席の友人と雑談をする者、少し離れた席まで赴き宿題をせびる者。
 授業の合間の休み時間でも絶えず他人と関わり合おうとする連中が、以前は不思議でならなかった。
 
 だが、今その私が、明らかに積極的に、他者と関わろうとしていた。
 
 念のため、小毬君のほうへと目を向ける。
 よし、彼女はクドリャフカ君と何か話しこんでいるようだ。
 妨害の危険性はなし、と。
 それを確認したところで、理樹君の許へと歩み寄る。

 幸い次の授業は数学で、誘う口実はバッチリだった。

 『少年、おねーさんとお茶でもしよう。無論キミに拒否権はないから安心しろ』
 『いや、どう安心しろっていうのさ・・・まあ、いいけど』

 なんて感じで誘えばいい。
 彼は呆れた顔を見せながらも、なんだかんだでついてきてくれる。
 そんな確信があった。

 自然に話しかけられる距離まで後一歩、といったところで、しかし、思わぬアクシデントが発生してしまう。

「理樹!今日も行くぜ!そぉれ筋肉筋肉〜!!」
「うわ、真人、今日も気合入ってるね!負けないよ!そぉ〜れ筋肉筋肉〜!!」

 突然真人少年が隣にいた理樹君とわけのわからん遊びを始めてしまったのだ。
 二人ノリノリで『筋肉筋肉〜』と叫びつつクネクネと上半身を動かしている。
 と、ある程度まで近づいていた私に、理樹君が気がついた。

「あれ?来ヶ谷さん、どうかしたの?」
「別に、なんでもない。そうやって馬鹿やっているといい」
「え?え?え?」

 何がなにやらわからない様子の理樹君を無視して教室の外へと向かう。
 廊下を出る瞬間、

「うおおおおお!俺の特製プロテインジュースが、何故かもずくジュースにいいいい!!!?」

 そんな悲鳴が聞こえた。



 キーンコーンカーンコーン



 二限の授業開始を告げる鐘が学園の敷地内を隅々まで侵食していく中、私はいつものように中庭の簡易テラスのほうへと向かう。
 途中中庭にある自販機で缶コーヒーを買うことも忘れない。
 購入した缶コーヒーを手に、お気に入りの席へと腰掛ける。
 緑に覆われたこの場所に、一陣の涼しげな風が吹き抜ける。
 実に気持ちよかった。

 今頃我が同胞たちはせまっくるしいコンクリートの密室で延々とくだらん演習問題でも解いていることだろう。
 せっかくそんな地獄から解放してやろうと思ったのに・・・。
 
 邪魔をした馬鹿には制裁を加えておいてやったが、まだ溜飲は下がりきらず、缶のプルトップを開けるときに思わず力んでしまった。
 カシュっと軽快な音を立てたまでは良かったのだが、そのままプルトップが引っこ抜けてしまう。
 結果、飲み口が不自然な形になってしまった。

「ふん、まあいいさ」

 こんなこともあるだろう。
 多少飲みにくいが、飲めないことはない。
 気にしない振りをして中身をぐいっと呷る。
 が、その瞬間、うっと中身を吐き出してしまいそうになる。

「まずい・・・なんだこれは!」

 ラベルをよく見ると、コーヒーには違いないが、いつも買っているお気に入りの銘柄ではなく、以前一度だけ試しに買ってみたもののあまりのまずさにどぶ川に投げ捨てたくそまずいやつだった。

「くそっ・・・なんだってこんな日に限ってこんなミスを・・・」

 そのまま投げ捨ててやろうと思ったが、それもまた悔しいので飲み干してやることにする。
 新聞紙を煮込んだようなくそまずい味のコーヒーを空にすると、そのまま自販機側のゴミ箱へと放り投げる。
 が、目測を誤り、缶はゴミ箱の後ろ、鬱蒼と生い茂る草むらの中へとダイブしていった。

「・・・見なかったことにしよう」

 記憶を5秒ほど消去して、さも何事もなかったかのように本を取り出す。
 はさんでおいたしおりをそっと取り外すと、私は1ページ1ページゆっくりと繰り始めた。



 キーンコーンカーンコーン

 

 しばし本を読みふけっていると、いつの間にやらそんな時間になったのか、二限終了のチャイムが聴こえてきた。
 徐々に辺りに人の気配が増え始める。
 移動教室なのだろう、廊下を友人と共におしゃべりしながら歩く同い年の学生たち。
 トイレにでも行くのだろうか、少し慌て気味に先を急ぐ男子生徒。
 以前の私なら気にも留めなかった光景。
 以前の私なら本でも読んで時間をつぶしていた休み時間。

 彼らを眺めそんな感慨にふけっていると、自販機へ向かって歩いてくる一人の少年を発見した。
 瞬時に辺りを確認する。
 うむ、人っ子一人いない。
 その少年(もちろん理樹君だ)は、自販機の前に来るとポケットをごそごそと探り出す。
 ふふ・・・後ろからそっと近づいて息でも吹きかけてやるか。

 『ふーっ』
 『ってうわああああ!!な、なんだ、来ヶ谷さんか・・・驚かさないでよ、もう』

 そういって真っ赤な顔で迫ってくる理樹君。
 ふっふっふ・・・はっはっは!
 想像したら笑いが止まらない。
 さあ、さっそく・・・

「はるちんぼーん!!!」
「ってうわああああ!!な、なんだ、葉留佳さんか・・・驚かさないでよ、もう」

 と立ち上がったところで、突然自販機側のゴミ箱の後ろ、鬱蒼とした草むらから一人の少女が叫び声と共に飛び出してきていた。
 それに驚いた理樹君が、すぐにその正体に気づく。

「相変わらず神出鬼没だね・・・」
「あははは、びっくりしたでしょー?」
「ほんとにもう・・・あ、葉っぱがついてるよ」
「え?ヤだ、どこどこ!?」
「頭の上に・・・とってあげるよ、よいしょっと」

 そういって少年は葉留佳君へと歩み寄り、そっと彼女の頭の上に手をあげて優しく払う。
 突然の少年の行動に、思わず頬を染めて固まる葉留佳君。

「あ・・・」
「はい、とれたよ」
「ありがと、理樹くん・・・」

 待て。
 待て待て待て待て待て待て待て待て!
 何だこれは!
 なんかすごい良い雰囲気じゃないか・・・。
 なんだかわからんが酷く腹が立つ。
 おかしい、あそこにいるのは私のはずなのに。
 どうしてこんなことになったんだ。
 今更出て行くこともできず、テラスから二人の様子を窺うことしかできないのがひどくもどかしい。

「でさー・・・それでね・・・!」
「あはは、それは葉留佳さんらしいや」
「でしょーでしょー!それからね、それからね!」

 ぴくっとこめかみが引きつる。
 いや待て、少し落ち着こうか私。
 これは何でもない光景じゃないか。
 いつものように葉留佳君が理樹君にちょっかいかけて理樹君がそれに乗っているだけの話だ。
 教室でよく見かける光景だ。
 まったく問題はない。

「そこでクド公がさー、こう『わふー!』ってこんな感じで跳び上がって・・・ってひゃああ!?」
「あ、葉留佳さん危ない!」

 体勢を崩して背中から地面に落ちそうになる葉留佳君を、理樹君がすかさずズザザーっと滑り込んで受け止める。
 自然、二人の体は重なり合うことになる。
 ちょうど、理樹君が葉留佳君を後ろから抱きしめる形だ。
 気のせいか、胸のふくらみあたりに理樹君の手が置かれている気がする。
 ひくっとまたこめかみが引きつった気がするが、きっと気のせいだ。
 あれは、助けようと無我夢中でしがみついたその結果でしかない。
 オールOKだ。
 
「ご、ごめん!そ、その!わざとじゃないんだ!」
「う、うん、ダイジョーブダイジョウーブ!助けてくれたってことはわかってますヨ?」
「うんまあ、とにかくごめん・・・あ、もうすぐ鐘なっちゃうし、じゃあ、僕は行くから!」

 そういうと理樹君はダダダーっと駆けていった。
 後には少しぼーっとした感じで取り残された少女のみ。
 それを確認すると、私はその少女へと後ろから忍び寄る。

「やあ葉留佳君、ちょっと話があるんだが」
「ほえ!?ああ、なんだ、姉御かー。何ですか?」
「まあちょっとそこまで来るといい」
「え?え?あ、ちょっと痛いんですケド・・・」

 『ぎゃああああああああああああああああああ』

「さて、教室に戻るとするか」

 草むらに横たわる葉留佳君を置いて、私は教室へと歩き出した。
 


 廊下を歩いていると、どこからともなくいい香りが漂ってくる。
 どこかのクラスが調理実習でもしていたのだろうか、食欲を嫌でも掻き立てる香りだった。
 教室へと向かう途中に調理室があるので、ついでに覗いていくことにする。
 
 廊下側の窓から中の様子を窺ってみると、どうやらすでに実習は終わっているらしく、後片付けをしている生徒の姿もまばらだった。
 室内から流れてくる残り香をしばし楽しんでいると、やがて担当教諭が最後まで残っていた生徒を退室するよう促す。
 廊下へと流れ出る彼らに見つからぬよう少しの間身を隠し、周囲に誰もいなくなってから調理室へと忍び込んだ。
 
 誰もいない調理室の中をぐるぐると歩き回る。
 別に何か目的があったわけじゃない。
 ただなんとなく授業に出るのが億劫だっただけで、意識していたわけではない。
 しかし、私の目が、おそらくは先の授業で余ったものなのだろう、その食材を捕らえたとき、いつかの会話が頭の中で再生されていた。

 『あ、玉子焼きは甘いほうがいいな』
 『なに?甘い玉子焼きなんてあるのか?』

「ちょうどいい、作ってみるか」
 
 一人呟くと、私は腕まくりをして準備をし始めた。



 キーンコーンカーンコーン


 
 教室へと向けて廊下を歩く。
 結局三限の授業はさぼることになってしまったが、その結果として右手に抱えた弁当箱が誕生したのだから問題ない。
 あくまでも私個人としては、だが。
 
 教室へ到着すると、ちょうど昼休みが始まったばかりで、ほとんどの生徒が中に残っていた。
 さて、肝心の理樹君はまだいるだろうか。
 
 彼の席のほうへと向けると、ちょうど真人少年や謙吾少年と共に立ち上がるところだった。
 おそらくこれからあの馬鹿共と学食にでも繰り出すつもりなのだろう、雑談に花を咲かせていた。
 そんな彼を見て思う。

 喜べ少年、今日は特別におねーさんがサービスしてやろう。
 舞台はもちろん、放送室だ。

 『理樹君、手作りの玉子焼きなどいかがかな?』
 『え?あ、もしかして、その、僕の為に・・・?』
 『当然さ。ほら、食べさせてやろう。あーんしろ』
 『そ、そんなの恥ずかしいからいいってば!』
 『なんだ?理樹君は、私の作った玉子焼きが食べられないというのか?』
 『そ、そういうわけじゃないけどさ・・・』
 『ほら、あーん』
 『うう、仕方ないなあもう・・・あーん、ん、モグモグ』
 『うまいかね?』
 『ゴクン。・・・うん、すごくおいしいよ!』 
 『当然だ。私が理樹君の為に作ったんだからな』
 『そ、そういう台詞は反則だよっ』
 『照れるな照れるな、ハッハッハ』

 と、まあこんな風に展開していくわけだ。
 誰もいない、二人きりの放送室でのお食事会。
 とびっきり至福の時を過ごせるに違いない。
 
 食事が終わったあとはのんびり二人で同じ時を過ごす。
 膝枕なんかするのもいいかもしれない。
 真っ赤に頬を染めつつも頭を私の膝に預け、目を閉じる理樹君。
 そんな彼の頭をそっとやさしく撫で付ける私。
 親密な、甘い空気を胸いっぱいに吸い込み、チャイムが鳴るまでそうやって過ごすのだ。

 なんだ、完璧じゃないか。
 鈴君の言葉を借りれば、これはもう『くちゃくちゃ完璧』というやつだ。
 そうと決まれば、いつまでも夢想に浸っている場合ではない。
 さっそく声をかけることにしよう。

「やあ、しょうね」
「リキ!リキ!いっつ・らんち・たーいむ、なのです!今日は私とご一緒しませんかっ!」
「うん、それはいいけど・・・そんなに興奮してどうしたの、クド?」

 手を挙げかけた私の目の前を小さな少女が駆け抜け、そのまま少年へと飛びつく勢いで話しかけていた。
 その少女は、興奮冷めやらぬ様子で理樹君へと捲くし立てる。

「それがですね、昨日、お爺様からえあめーるで、『クドリャフカ、お前にもそろそろ我が家の味を継いでもらわなければな』という手紙と一緒に、お婆様愛用のレシピを丸ごと送ってくださったのが届いたですー!それで、さっそくお昼に簡単にできそうなものをいくつか作りたいのですが、もしよろしければリキに味見役を頼みたいと思いましてっ」
「へえ・・・クドの家の味・・かあ。うん、僕でよければ、全然OKだよ」
「わふー、ありがとうございますー!では、れっつ・家庭科部室へ・ごー、なのですー」

 そういうと、クドリャフカ君はあっという間に理樹君の腕をつかんでどこぞへと走り去っていった。

「・・・」

 風のごとく走り去っていった二人。
 彼らが出て行った先を呆然と見つめる。
 挙げかけた私の手は目標を見失い、そのまま凍りついたかのように停止する。
 そんな私の元に、一人の少女が後ろから駆け寄って声をかけてきた。

「お、あねごー!姉御が昼休みに教室にいるなんて珍しいですネ。よかったら一緒に・・・って、何招き猫みたいに中途半端に手を上げたまま停止してるんですか?」

 不運にも今の私に声をかけてしまった少女に向けて、ぎぎぎと首を機械人形のように動かす。
 おそらく今の私は肉食獣にも似た世にも恐ろしい目をしていることだろう。
 その証拠に、目が合った瞬間、葉留佳君が逃げ出しそうだったので、すかさず回り込んで腕を捕らえる。

「あ、なんか私、急に用事思い出しちゃったりなんかして?」

 この期に及んで逃げ出そうとする葉留佳君の顔をがっしりと固定し、片方の手に持っていた弁当箱をぱかっと開ける。
 そこには、目もくらむばかりの一面黄色の花畑。
 そのお花を一つ箸で掴み取り、眼前の少女へと押し迫る。

「やあ葉留佳君、いいところへ来たな。・・・何?私の玉子焼きが食べたいだって?ハッハッハ、仕方ない、特別に分けてやろう」
「いや私まだ何もいってな・・・もご!・・・もぐもぐ・・・うわっ!あねご、これ甘すぎ!めっちゃ甘いっす!」
「そうかうまいか、遠慮せずどんどん食べるといい」

 ひょいひょいひょいと手当たり次第に玉子焼きを葉留佳君の口へと運ぶ。
 彼女の口のキャパシティーは既に限界を突破していたが、私は一向に気にせず残飯処理の作業を続ける。
 ひょいひょいひょい。
 
「もごもごもご!ふ、ふるひい・・・ほうはいららいっふ、はねふぉーふぁんにんひへ〜(く、くるしい・・・もう入らないっす、あねごー堪忍して〜)」
「はっはっはっはっは」

 手当たり次第に玉子焼きを放り込んでいると、次第に葉留佳君がぐったりとしていく。
 その様を見て少し溜飲が下がる。

「うむ、これでよし」

 自分を取り戻した私は、とりあえず昼食をとるために放送室へと向かうことにした。

「うう・・・みおちん、私、姉御の気に障る様なこと、何かしたんスかね・・・」
「さあ、私に聞かれましても正直困ってしまいます。・・・それと、口から玉子焼きがはみ出していて汚いですから近寄らないでください」
「しくしくしく・・・」

 去り際、そんな会話が背中越しに聞こえてきた。



 生徒たちで賑わう廊下をズカズカと歩く。
 人波をかきわけ、ただひたすら一直線に突き進んで行く。
 普段なら気にも留めない昼休みの喧騒が今はやけに気に障る。

「ええい、うるさい・・・」

 半ば八つ当たり気味にガツンと壁を蹴りつける。
 その様を見ていた女生徒がヒッと悲鳴をあげてこちらの様子を窺っていたが、追い払うようにギロリとにらみつけると一目散に駆け出していった。

「何をやっているんだ私は・・・」

 半ばどころの話ではない、完全に、八つ当たりだ。
 蹴りつけた壁に、履いてる上履きの足跡がくっきりと浮き出ている。
 その跡を見ているうち、段々と自分の頭が冷静さを取り戻していくのを感じた。
 すると、さっきまで当り散らしていたことが急に馬鹿げたことのように思えて恥ずかしくなってくる。
 いい加減、自分に嘘をつくのはやめようか。
 
 よし、認めよう。
 わかった、認めようじゃないか。
 多分私は、嫉妬しているんだろう。
 理樹君を獲られたことに苛立ちを感じているのだ。
 
 彼女たちのことが嫌いなわけでも、ましてや憎いわけでもない。むしろ、好ましく思っている。
 これまで人を人と思わず生きていた私が、初めて人として触れ合えた愉快な仲間たち。

 でも今日だけは、今だけは、まったくもって面白くない。
 今日は、せっかくの・・・。

 そんなことを考えているうちに、放送室へとたどり着く。
 扉を開け、誰もいない室内へと入り込む。
 少しだけ黴臭い匂いのするこの部屋は、しかしその実私のお気に入りの場所の一つだ。
 中庭の簡易テラスが使えない、または使う気分ではないとき、私は大抵ここに居座ることにしていた。
 
 扉に鍵をかけ、放送用マイクの前に設置してある椅子へと腰かける。
 静かな室内。
 あれほど煩わしかった学内の喧騒が、今は別次元にでも存在しているかのようにどこか遠くのものに聴こえる。
 気まぐれにお昼の放送でもしようとマイクのスイッチを入れかけ、どうもそんな気分にはなれそうもないと思いなおしてスイッチから手を離す。
 そのまま椅子の背もたれに背を預け、目を瞑って物思いにふけることにする。
 
 どうにも、気だるいな・・・授業開始まであと20分か・・・。
 面倒だ、午後の授業はサボってしまおう。

 そうして居直ると、あの狭苦しい教室の息苦しい沈黙から解放されるわけで、肩の荷が下りた心地がする。
 ・・・本当は、もっと別のことで荷が下りたのかもしれないが。

 それ以上は考えるのをやめ、頭の中を真っ白に染め上げることにする。
 考えが煮詰まったとき、あるいは考えるのが面倒なとき、私はこうして白い雪を頭の中にイメージする。
 澱んだ大地に降り積もる雪のように、燻った脳内を白く、白く染め上げていく。
 そうして一面真っ白になったころ、私の意識はどこか遠くへと落ちていく。

 

 コンコン、コンコン



 何か物音が聞こえたような気がして、ハッと目を覚ます。
 そこで初めて、自分が眠っていたことに気づく。
 時計を見ると、針は既に放課の時刻を指していた。
 思考をリセットするつもりが、そのまま眠りについてしまっていたらしい。
 期せずして授業をサボったことになったが、元々そのつもりだったので特に気にしないことにする。

 コンコン、コンコン

 再び物音が聞こえる。
 確認するまでもなく、この音は扉をノックする音だ。
 背もたれから身を起こし、扉のほうへと目を向ける。
 対応するのも面倒だ。
 どうせ教師辺りが見回りの途中、鍵がかかってるのを不審に思って確認するつもりなのだろう。

 コンコン、コンコン

 そう思って息を潜めていると、再度ノックの音。
 今日の見回り担当はなかなかしつこいようだった。
 以前似たような境遇に陥ったときにはすぐ諦めて帰ったのだが、どうも今日はそうはいかないらしい。

「仕方ない、相手してやるか」

 いささか不機嫌な対応になるかもしれないが、自業自得ということで納得してもらおう。
 そうして椅子から立ち上がると、私は扉に手をかけた。


 
 ガチャリ、と扉が開く。
 さて、どうやってあしらってやろうか。

 

「あ・・・やっぱりここにいたんだ」

 しかし、私の予想に反して、扉の向こうにいた人物は、

「いろいろ探し回ったんだけど、どこにもいなかったから、多分ここかなって思ってさ」

 少し息切れした様子で、しかし苦労はまったく見せずにっこりと笑って、

「来ヶ谷さん、誕生日、おめでとう」

 私の名前を呼んでくれた。それも、とびっきりのおまけ付きで。




「どう・・・して?」

 予想外の事態に動転してしまい、そんな気の利かない台詞しか出てこなかった。

「今日、来ヶ谷さんの誕生日だったんだってね。初めて知ったよ。・・・朝小毬さんが教えてくれなかったら、知らないままで一日を終えていたと思う。そうして、後で知って、きっと後悔していたと思うんだ。だから、」

 理樹君はそう言うと、息を継ぐように言葉を止め、私の目をじっと見つめて、また言葉を口にする。

「間に合ってよかった」

 その言葉を聞いた瞬間、私は自分でもわからないままに激しい怒りを感じていた。
 そうしてその怒り、そのまま目の前の少年にぶつけてしまう。

「遅い・・・じゃないか・・・」
「え?」
「遅いじゃないかっ。朝知ったんだったら、すぐにでも来てくれたっていいものじゃないかっ。・・・ああ、そうか、理樹君の周りには可愛らしい女の子がたくさんいるものな・・・私などよりも。別段、おかしいところはないというわけだ」

 違う、何を言ってるんだ私は。
 こんなことが言いたいわけじゃない。
 それなのに、口はとめどなく嘘偽りの言葉を吐き出し続ける。

「なら、遠慮なく他の女の子の許へと急ぐといい。・・・こんな嫌なことをいう女のことなんかサッサと忘れて・・・っ!」

 もはや正面から彼の顔を見れなくなってしまった私が、
 背を向けてまったくの本心でない言葉を、
 まるで自分以外の誰かが言ってるかのように聞いていると、
 ふっと背中に重みを感じた。

「ごめん」

 違う、違うんだ。
 理樹君は悪くない。
 悪いのは、何も言わなかった私だ。
 だから、理樹君が謝る必要なんて、全然ない。

「大好きな来ヶ谷さんの誕生日だってわかったら、その、驚かせてあげたくて、プレゼント、どんなものなら喜んでくれるかなって、考えたんだ。でもよく考えたら、僕は来ヶ谷さんの好みとか全然わからなくて・・・それで、いろいろな人たちの意見を聴くことにしたんだ」

 背中越しに理樹君の体温を感じる。
 それは、とても温かくて、冷え切った私の心を徐々に溶かしていってくれた。
 
「そしたらさ、皆、口を揃えていうんだよね。『僕が一番のプレゼントになる』って・・・」

 見えなかったけれど、きっと今、理樹君の顔は真っ赤に染まっていることだろう。
 そして、多分、私の顔も赤いに違いない。
 全身が熱くなっていく。

「だから、その・・・えっと、僕を、もらってくれますか・・・?」

 振り返ると予想通り、そこには赤面俯き状態の少年がいた。
 私は髪を縛っていたリボンを解くと、そのリボンでゆっくりと、丁寧に少年の頭にちょうちょ結びを作る。

「理樹君は、可愛いな」

 そういうと、私のされるがままになっていた理樹君が顔を上げ、

「来ヶ谷さんほどではないけどね」

 なんて言い返してきた。

「む・・・」

 真っ赤な顔のまま、二人見つめあう。
 やがて、どちらからともなく笑い出してしまった。

「ふふふ・・・はっはっは!『僕をもらってくれますか』だなんて、理樹君、キミは滅茶苦茶恥ずかしいことを言ってるぞ!」
「わ、笑わないでよ、もう!すっごく恥ずかしかったんだから・・・」

 そうしてひとしきり、二人で笑い合う。
 夕日が差し込む放送室に、私たちの声だけが響く。

「まあ、リボンもつけたことだし、これで少しはプレゼントらしく見えるな。それでは、ありがたく頂戴するぞ」
「う、うん、どうぞ」

 からかったつもりが、真っ正直にずいっと頭を差し出す理樹君。
 結びつけたリボンが、なんとも滑稽に揺れていた。
 
 ああ、悪くない。
 こういうのは、悪くない。
 悪くないどころか――

 プレゼントを抱きしめる。
 ちょうど私と同じくらいの背丈の男の子。 
 さあリボンを解き、箱の中を開けてみよう。

 ――とても、心地良い。
 きっと、この心の温かさが、
 恋をしているってことなんだろう。

「ハッピーバースディ、来ヶ谷さん」
「ありがとう、理樹君」

 二人、口づけを交わす。
 やはり、私の勘は間違っていなかった。
 素敵な一日を、ありがとう――
 



 あとがき

 最初あまあま物を書こうとしてたんですが結局「あま・・・あま・・・?」なものに仕上がってしまいました。
 設定としては唯湖真END後のお話、のつもりです。恋を知った彼女の意外な一面がっ!?みたいな感じで書いたつもりが「これ、唯湖なのか?」になってしまうという・・・。
 いや、きっとこんな風に嫉妬したりするに違いない・・・。クール&ビューティーな姉御はきっと誰かが書いてくれるはずです。
 そういえば彼女の誕生日をネタにしておいてなんですが、ちょっと調べてみたところ公式の設定がなさげでした・・・寂しい。