そう、これは夢。
あまりに都合のよすぎる、夢。
残ったのはひとつの後悔。
いつかの約束。
忘れたくない想い。
でも、忘れてしまった想い。
それが消えたのはいつの日か。
あるいは、ただ眠っているだけなのか。
それすらも曖昧なまま、また眠りにつく。
今日という日を、忘れないために。
ほんの少しの、夢を見る。
「ひとつぶのきせき」
「そろそろ電気消すぞー、理樹ー」
久しぶりの読書に耽っていた僕に真人が声をかけた。時刻を見るともう深夜の2時を回っていた。
「わかったよ、そろそろ寝ようか」
本にしおりを挟んで机の上に置く。少し分厚い文庫本であるそれは、いつだったか西園さんに勧められたミステリー小説だ。
振り返ると、ちょうど真人が電気を消すところだった。
「それじゃ、おやすみ真人」
そう言ってベッドに入る。と、同時にパチッという音と共に電気が消える。
「おう、おやすみな」
みんなが帰ってきた日常。いつかあった夢の出来事を忘れて、今の「本当の世界」の日常を過ごすようになって。
いつか夢見た世界が消えてしまって、もう1年がたとうとしていた。
おぼろげながらに覚えていた「世界」の出来事も、いつしか忘れていった。
今日という日が、いつなのかということにも気づくことなく、眠りにつく。
時計の針がカチリ、という音を立てたとき、僕の意識は「世界」の中へ埋没していった。
目を開くと、そこは一面の銀世界だった。
窓から覗くのは白い粒。氷の結晶。そして自分がいるのは教室前の廊下。
その瞬間、全てを思い出す。白の世界に埋もれていったいつかの想い。消えた願い。
後ろを振り返ると、そこは白の世界。まさにあの「時」の再現だった。
なら、自分が何をすればいいか。向かうべき場所は、ひとつだ。
さぁ、一人で泣いているはずのお姫様を、助けに行くとしようか。
鍵はかかっていなかった。ドアをすっと開け中に入る。もしこれがあのときの再現だというのなら、自分が何をすべきかは決まっている。
部屋の奥に行くと、布のかかった電子ピアノがあった。そのピアノからずっと流れ続けている、懐かしいメロディ。
演奏者のいない電子ピアノは、今でもその音を奏で続ける。まるであのときの出来事を忘れまいとしているかのように。
もう、休んでいいんだよ。
僕はもう、思い出したから。
ピアノの布をとる。
そういえば、この席に座るのは初めてなのかな。そうひとりごちながら席に座る。
いつかの後悔も。いつかの想いも。その全てを受け止める。いつかの世界で誓ったから。強く、強く生きると。
ここは夢の世界だ。なら、僕には何だって出来る。そう、この世界を守ることも――――――――壊すことも。
僕は、ピアノを奏で始めた。
そのピアノに込められた願いを引き継ぐように。
時に荒々しく、時にやさしく。
彼女との思い出を振り返るように、ただ無心に奏でる。
消えていく。
いつかのメロディが、消えていく。
僕の奏でるメロディに、上書きされていく。
でも。
たとえそのメロディが消えたとしても。
僕の中に、いつかのメロディが残ってる。
それは決して忘れることのない、思い出。
忘れられない、思い出。
その時の想いも。後悔も。そして世界も。忘れられない思い出。
それは届く。なぜならこれは…
「私の見た、夢、だから。」
「僕の願った、夢、だから。」
後ろから抱きすくめられる。その声は、震えていた。
「理樹、くん…」
「また、名前で呼んでくれたね。来ヶ谷さん」
そして、僕は彼女を…愛する彼女を抱き寄せた。
雪は、もう止んでいた。
夢は、終わる。
周りが、白くなっていく。
白く、しろくとけていく。
それでも、ぼくらは
ぼくらは、わすれない
そのねがいを
ちかいを、きいたから
目が覚める。時刻は午前3時。まだ眠って1時間しかたっていない。
カーティガンを羽織る。会いに行こう。彼女はきっと、あそこにいる。そう確信できる。
そっと部屋を出る。辺りはまだ真っ暗だった。非常灯の明かりがどこか現実で無いような雰囲気を感じさせる。
正面玄関から出る。見回りの先生が来る気配も無い。
何か、冷たいものが頬に触れた。それは、あの日を再現するかのような白い雪だった。
深夜の校舎に雪が降る。降るはずのない、雪が降る。
鍵は、かかっていなかった。
軋んだ音を立てて開いた、その扉の奥には彼女がいた。
月明かりを浴びて、まるで聖女のような様相で、そこにいた。
やさしい指で、ピアノを奏でる彼女が、そこにいた。