どこかにぽっかりと大きな穴が開いて。
風が通り抜けて音を立てているのに、それがどこか分からない。
だったら、そんな穴、初めから埋めようなんて考えるんじゃなかった。
無理をして埋めようとして、必要のないところに山を作る。
そうして人は人を傷付けていくのだろうか。
これが私のご主人様
何もかもが懐かしい。
全ての思い出が懐かしく、懐かしいほどに遠い。
浅はかな考えを胸に始めた一人暮らしの空虚さ。
親父との関係を修復するつもりはない。
例えそれが修繕されたとしても、そんな継ぎ接ぎだらけの愛情は願い下げだ。
そう信じ込んで、飛び出したあの家も既に思い出として風化されるのを待つばかりだ。
逃げたのだ。
問題から、親父から、なんといっても自分から。
遠くへ、より遠くへ、できる限り遠くへ、誰にも干渉されないほど遠くへ、気が遠くなるほどの遠くへ。
そして俺は、何かを失った。
「今日から、私はお前の専属メイドだ」
だからだろうか、いや、だからこそなのだろう。
突然の智代との再会と、突拍子もない提案に感慨なく接することができたのは。
自分はお前に世話になった、だから今度は世話をしたい。
自分はお前に救われたも同然だ、だから今度はお前のどんな要求ものんでやりたい。
だから私は、朋也の専属メイドになることにした。
正直、何かに飢えていた。
人間関係、極端な話が話し相手にすら飢えていたのだ。
たぶんその辺りが理由なんだろう。
妙な理屈をつけてくる智代も、智代がここを探り当てた理由も、何もかも放り出して受け入れた。
失敗は、ここから始まった。
*****
高校を出てすぐだった俺は、職も見つからずにバイトを転々としていた。
元の町に帰るとするならば、何かと便宜を図ってくれるであろう人々の顔も思い浮かばれた。
けれどそれは、自分への敗北だった。
逃げ出した自分は、逃げ切ることもできなかった。
そんな展開だけはなんとしても俺のちっぽけなプライドが許さなかった。
傷だらけの、なんの誇りもない子供じみたプライドだったけれど、それがかっこいいと思い込んでいた。
ドラマの臭い台詞のような。
音程を合わせられない指揮者のような。
結局、自分に酔っていたのだ。
本気でかっこいいと信じて貫き通した、欺瞞の塊。
それに気付いたときには、もう引けないところまできていたのだから仕方ない。
放り出すこともできずにただ目を向けることなく放置する日々。
そして今度は、都合よくその塊を智代が包み込んでくれると信じて疑わなかった。
「朋也、愛してる」
空虚なんかじゃない。
戯言なんかじゃない。
それでも、れっきとしていた愛の儀式は少しずつ横滑りしていたのだ。
コップを割ったとき、素手で集め終わって傷だらけになったその指で、智代はブラウスのボタンに手を掛けた。
訳がわからず問い詰めた俺に、彼女はしれっとした声で頷きながら言った。
「だって朋也、メイドは脱いで償うものだろう?」
エプロンドレスを着ていない専属メイド。
どんな願いでもかなえてくれるメイドと主人は、愛し合っていた。
けれどそれは、両者の意見の食い違いが明確になったときには既に、愛玩と主人の関係を構築させられていた。
はめられたのだ、完全に。
もう俺には智代を手放せない。
もし智代が出て行けば、誰がバイト帰りの俺に温かい飯を食わせてくれる?
もし智代が出て行けば、誰が疲れている俺の意を汲み取って風呂を沸かし、背中を流してくれる?
もし智代が出て行けば、誰が電気を止められてつかなくなった暖房の下、抱き合うことで冷えた身体を暖めてくれる?
もし智代が、もし、もし、もし智代が出て行けば、もしもしもしもしもし、もし。
考え出したら切りがない。
そう、それだけ俺は彼女に依存していた。
いやむしろ、依存されることで依存させられていた。
最早、彼女はメイドなどという域ではなく、俺自身であり、俺の玩具であり、俺の伴侶であった。
逃げられないのだ、彼女から。
どんなに息が詰まるようになったとしても、どんなに体が限界を訴えていたとしても。
堕落した精神が俺を彼女につなぎとめようとして、自分が自分を粛清する。
ずたずたに引き裂かれた精神は、無意識に彼女を求める。
そう、彼女。
彼女の名は、ああ、もう彼女に名前なんて要らない。
彼女はもう俺のものなんだろう?
彼女はもう俺から離れちゃいかないんだろう?
だったら、彼女は俺しか見ない。
だったら、俺は彼女しか要らない。
だったら、彼女は彼女のままでなんら問題ない。
「朋也、愛してる。この世の誰よりも。だから、私のことを見捨てないでくれ」
「当たり前だろ? 俺もお前のことを世界で誰よりも愛してるんだ。放すもんか」
「ああ、そうだな」
最早、愛を確かめ合うのは日常だった。
裏を返せば愛を確かめ合わないのは、日常を崩壊させる要因だった。
二人は愛し合っている。
二人はどこまでもいつまでも一緒なのだ。
けれど、そこには愛を誓い合う日常が不可欠になっていた。
もしそうしなければ、確実にこの生活が破綻することを悟っていた。
だからこそ、いや、だからなのだろうか。
彼女との狂気的な日常を、受け入れてしまったあの失敗を振り返ることができたのは。
「そう、そうだ、智代だ。智代なんだよ!」
「どうした? 朋也。私の名前を何度も呼んだりして?」
智代は、自分の名前を呼んでくれと一言も言わなかった。
智代は、自分を愛してくれとは自分からは一度たりとも言わなかった。
智代は、自分が俺を好きだという強い欲求のために衝き動いていただけに過ぎなかった。
それはまるでドラマの臭い台詞。
それはまるで音程を合わせられない指揮者。
結局、自分を強制されていたのだ。
そしてそれに気付いてしまった俺は、どうしようもない虚脱感に襲われた。
全てが虚構。
全ては欺瞞の延長。
俺の逃避から始まった喜劇が、智代の依存心で彩られた悲劇に変えられた。
けれど台本は同じ。
けれど楽譜は同じ。
そう、それは単なる延長線上の狂気の一端。
気付いてしまったのだ、仕方ない。
狂った世界は壊さなきゃならない。
歪んだ遊戯は終わらせなきゃならない。
滲んだ恋愛はこれ以上滲ませてはいけない。
曇ったガラスは拭けばいい。
曲がったレンズは溶かせばいい。
そうやって、俺たちは少しずつ大人になってきたんだから。
そうだろ、親父?
そうだろ、春原?
そうだろ、芳野さん?
「智代。終わりだ。茶番は」
だから告げた。
残酷じゃない、酷薄なだけだ。
冷淡じゃない、淡白なだけだ。
俺は、あのとき失ったものを取り戻さなきゃならない。
単なる拾い集めた代用品で埋めただけなら、それは親父と俺のあの瞬間と一緒なのだ。
空虚で。
無意味で。
空回りばかりした。
あの、気が狂ってしまうほど遠い思い出の中の時間と。
それは、いやだ。
失ったら取り戻せばいいんだから。
ただ嘆くだけじゃ何も変わらない。
ただうめくだけじゃ何も変えられない。
ただつぶやくだけじゃ何も変わってくれない。
俺は俺は、もう二度とあんな思いはしたくない。
「嘘、だっ! 嘘だと言ってくれ、朋也! お願いだ、私は、私は、お前がいないと……っ!」
くだらない。
くだらないんだよっ!
こんな生活はっ!
何も変わらないじゃないかっ!
俺たちは、ただ傷を舐めあっていきてきゃいいんじゃないっ!
向き合わなきゃいけないんだろっ!
立ち向かわなきゃいけないんじゃないのかっ!
智代っ、お前、生徒会長なんぞになって何を学んだんだっ!
上辺だけなのかっ!
お前の信念てのは、そんなちっぽけなものだったのかよ!
あきれるよ。
結局は自分の依存心のために俺を利用としやがったんだなっ!
「俺は、お前の玩具じゃない」
「なんでもするからっ、お願いだっ! 捨てないでっ! 私を、見捨てないでっ!」
取り乱した智代が滑稽だった。
そんな智代に自分を映している俺は更に滑稽だった。
こんな滑稽なカップル、他にいやしない。
こんな滑稽な女がこんな滑稽な男の伴侶になるなんて、なんてなんて。
なんて、最高なことなんだっ!
「安心しろ、俺は逃げやしないさ。だって俺は、お前の玩具じゃなくて、彼氏なんだろ?」
「っ……!」
「付き合って不幸になどなってたまらないじゃないか、そうだろう? 智代?」
泣いた。
それからの智代は俺の腕の中で号泣だった。
彼女らしくない、それでいて彼女に似合った温かい涙が胸元を濡らす。
すまなかった、すまなかった。
ただそれだけを壊れた機械のように繰り返して。
ただがむしゃらに、俺に謝る智代が酷くいとおしくて。
何の意図もなかったけれど、深い興奮と安心の中で彼女の顔をあげ、唇を塞いだ。
一瞬涙が止み、そしてまた溢れ出した。
生涯の涙を搾り出したかのように泣いた智代は、その後安らかな笑顔で眠ってしまった。
可愛らしい純粋な横顔、その頬にもう一度軽く唇を触れさせて。
顔を上げて長く伸びきった無精ひげをさすりながら、これからのことを考えた。
智代が起きたら、もう一度きちんと告白してやろう。
そして気が向いたらメイドごっこでもやらせてやったら面白いかもしれない。
そのときどんな顔をするだろうか。
照れるのか、いや智代だったらまんざらでもなくやってのけるかもしれない。
だったら今度はきちんとエプロンドレスでも買ってきてやろうか。
そんなことを思いつつ、窓から見上げた空は久しぶりに晴れていた。
随分久しぶりに見る外の景色。
柔らかな日差しを受けつつ、今日は親父に電話しようか、などとふと思いついた。
終われ。
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