T h e   H a t t e r



 そろそろ帽子を買い換えよう。そう思ったのは、つい先日のこと。読んでいたファッション雑誌に影響されてのことだ。理由は大したことではない。ただモデルが上手く被っていたので、それを真似てやろうと思ってのことだった。それに、キャスケットを被っているのだが、長く使っていたせいか、上手く形を作れなくなってきていた。元々潰れたような形だが、ここまでいくと休ませてやるのもいいだろう。そう思ってのことだった。
 しかし、と続く。いざ商品を見ると、やはり品質と値段は比例関係にあるのだと実感せざるを得なかった。懐具合はこころとも無く、勢いでも買えそうにない。だが、手にして鏡を覗くと、自分の挑戦は正しかったと確信できた。安くなるのを待つのもいいが、こういうものはさっさと決めないと忘れてしまうものでもある。だが、バイトをしていない学生には、選択肢はないも同然だった。
 おとなしく、ヨーカ堂から出て、バイトやろうかなぁとひとりごちた。チャンスは多くあったが、自分の性格を考えるとどこも手を出せないでいた。正確には性格ではないのかも知れないが、愛想がないのだ。普段、わざわざ表情を作る必要がないので、基本的に表情はない。その能面ぶりとそっけない口調があいまって、ぶっきらぼうと思われてしまう要因となっていた。小さいころはそうではなかったかもしれないが、そう決めつけられて接されているうちに、自然とそうなってしまったのだ。半ば作られたようなものだが、直せるものでもなかった。だが、その態度が相手を不快にさせていないかと、いつも気を遣っている。店員になるとその数も増えるし、なによりそこでの安全に人間関係を築けるか自信がなかった。
 溜息をつき、空を見上げる。白い雲のような息は、あっという間に大気に飲まれた。薄い三日月が見えた。馴染みのある風景だった。これまで幾度となく見てきた風景だし、これからも見ていくものだろう。自分が周りとこれだけ馴染めるには、どれくらいの努力と時間が必要なのだろうか。
 ひゅう、と風が吹いた。大したこと無い程度だが、帽子が傾く。慌てずに直し、軽くなでつける。よく馴染んだ感触だった。それを確かめて前を見直すと"Mad Hatter"という木彫の看板を見つけた。帽子屋。こんな店あったか、と思ったが、ごく普通の装いだったので気付かなかっただけだと思い直す。入り口を挟んだ腰窓には、コートハンガーがひとつづつあり、種類の違う帽子が段違いに掛けられていた。背景の帽子を選ぶ老人と照明とが、完璧な空間を作り出していた。
 それを見ただけで心にふと安心感が籠もるのが判った。まぁ、ものは試しか。値段のことは考えずに、入った。
 中は、ごく普通のリビングだったが、背の高いコートハンガーが林のように生えていて、隠すように帽子が掛かっていた。どこかで見たようなもの、初めて見る一風変わったものとさまざまで、天井が緑なら、さしずめ、バナナの木だ。
 帽子と机の間をすり抜け、奥に入っていく。ただ歩いているだけで、次々と通った脇の帽子のことが頭に入ってきた。初めから知っていたように入り込んできたので、その違和感の無さが戸惑いを伴わせなかった。色、形、サイズ。情報が自然と溶けこんでいく。半数ほど見回ると、カウンターらしきところにつく。
「気に入ったのは見つかったかな?」
 少し腹の出た店員がいた。軽く会釈して、中途半端に笑う。金がないことを言葉を濁らせながら話した。
「ははっ。それじゃしかたない。でも、店から持ち出さなければタダだからね。存分に被ってみるといい」
 そういって、店員はハンガーの林の中に入っていく。しばらくすると、誘いがきた。誘いに乗ってみるが、コートハンガーの高さは、2メートル近くあり、相互間隔は30センチもない。先を見づらい上に、常に足止めを狙ったように配列されていて、なかなか進めなかった。
 ようやく到着すると、見慣れた帽子を手に店員は待っていた。普段被っているやつと同型のものだ。思わず、頭に手をやる。キャスケットの潰れた感触が返ってきた。
「いやね、呼ばれてるような気がしてね」
 馴れ馴れしい言葉遣いだが、真剣にそれを見つめている。「君のことが気に入ってるようなんだ」そういって、かぶせ換えられた。似合うね、と頷かれる。そして、型崩れした帽子を見やると、店員はいう。
「長く大事に使ってたんだろ? そいつは君に捨てられるのかとショックを受けてるよ。君の方はどうだい? 別れたい?」
 別れる、という言葉に違和感を憶える。この帽子は初めて自分で買って、友人たちに褒められたもので、時々休ませながら使っていたのだ。どこにいくにしても一緒だった。そう思い起こしていくと、この帽子は自分の一部のような錯覚を憶えた。
「これは、残しておくつもりです」
 店員が顔を覗く。
「どこにいくのも、これと一緒でした。愛着というか、思い入れのあるものなんです。そんなに易々と捨てる気はありません」
 店員は少し微笑んだ。
「だけど、もうひとつあったら、どちらかが置物になってしまうね」
 確かに、と口を結ぶ。だが、
「大丈夫だ。手はある」店員は肩を叩いた。
 え、と店員を見る。店員はにんまり笑って、こっちだ、というと店の奥に消えていった。
 カウンターに入り、観葉植物のすぐ脇の扉を開いて、店員はその奥へ招いた。細い廊下を渡っている最中、トイレの標識と、開けっ放しの引き戸の奥にダイニングを見つける。自宅ともしてるのかと思ったところで店員は止まった。そして、にやり、と笑って「当店唯一の秘密の場所へようこそ」と扉を開けた。
 真っ暗な部屋だった。陰で暗いのではなく、暗黒に飲まれたような場所だった。気を抜くと、平衡感覚を失ってしまいそうになる。「堅くならなくていいよ。倒れても、足下は床だから痛いけど」降って湧いたような声に少し考え、座る。「……賢いな」
 少し前から音がしていた。店員のものだと見当がついたが、なにをするか判らなかった。目をこらしてもなにも見えない。そうしていると、いきなりそこが明るくなった。不意打ちを食らい、目が眩む。
「主人に恵まれたな」
 目を(しばた)かせていると、そんな声が聞こえた。
 しばらくして、目が慣れてきた。だが、それでも視点をずらしていないと目が潰れそうな明るさだった。店員は光源の近くにいて、影が壁いっぱいに広がっている。そこで、ようやくここが窓がないだけの部屋だと判った。
「この光の正体がわかるかい?」
 判りません、と答える。鋭く輝いていたが、やがて包まれるような明かりに変わっていく。安心感を憶える、温かい光。店員が振り向く。
「感情だよ。こいつのね。……そんな顔するな、理解できないのは判ってるんだから」
 そういって、もうひとつ、同型の帽子を取り出した。「今からやることは、もっと理解できないだろう」そういって、帽子を軽く玩ぶ。「記憶の移植をする」
「移植?」
「そう、移植だ」
 店員は光り続ける帽子をなぞった。
「こいつは、もうすぐほつれ始める。縁や縫い目の糸が切れて、徐々にほつれて、形を保てなくなる。まぁ、そうなるほど被らないだろうけどね」
「それで、なにをを移植するって?」
「よく聞いてくれた。そこが重要なところなんだ。耳をかっぽじってよく聞いてくれ。移植するのはね、記憶だ。正確には、思い出だけどね」
 よく判らないという顔をすると、当然だという表情を返す。
「君は、こいつに思い入れがあるといったね。その思いは、こいつにもある」
 部屋の奥にテレビの砂嵐のように光が現れると、砂鉄が磁力に引かれるように粒子が集まりだし、コートハンガーがふたつ出来上がった。世紀を超えたアンティークばりの趣を持つそれらは、圧倒的な精気を放ち、ピラミッドにも似た存在感を感じさせた。まるで、神殿だ。
 店員はそれぞれのハンガーに、それぞれの帽子を掛けた。
「呪いの人形ってあるだろ? フランス人形や日本人形の髪が伸びるというのさ。霊媒師がいうに、あれらは持ち主やさまよった魂の感情、またはそのものが乗り移るんだそうだ。そして、人間と同じような存在になる。
 ひとつ不思議が出来ないかい? なぜ、それは人形にしか起こらないのかって。きっと霊媒師たちなら的確に答えてくれるんだろうけど、こういう問いには、まるで自分たちが無機物になったみたい答えてくれない。
 僕が思うには、感情をどうやって表せばいいのか判らないんだ。人形は表情を変えたり、人間のように髪を伸ばせるけど、帽子や掛け軸にはそういった象徴がない。それが口惜しくて別なものに乗り移る。でも、そうしないケースももちろんある。今回がそれだ。その理由はふたつある。持ち主を守っている場合と、眠っている場合。この考えが間違いでなければ、この帽子は前者になるはずだ」
 その証拠に、今こうして輝いているのだ。言葉に出さなかったが、店員は絶対の自信を表情に出した。
 ハンガーに掛けられたそれぞれの帽子は、熱弁している店員を無視して事を運んでいた。輝きは光の糸を吐き出し、ゆっくり、隣にへとうねる。始めは1本だったが、次の瞬間には無数の糸が複雑に絡まり合ったまま流れた。その動きは紫煙のカオスを感じさせながら、やがて辿り着く。そして間もなく、新しい帽子に輝きが生まれだした。光の糸は清流のように流れ続ける。この小さな帽子のどこに、それだけ留まっていたのか、想像も出来なかった。この糸ひとつひとつが記憶であり、思いであり、概念や魂に通ずるものであると思い出すと、原料時代のもあるかもしれない。いや、その過程を通って今があるのだ。間違いなくあると確信する。この儀式が失敗に終わったとき、原料である"綿"というその概念だけが消えていたら"ポリエステル"と答えても(まか)り通るかもしれない。長く流れ続けた糸は、ベルヌーイの定理に逆らって、その全てを新しい帽子に収めた。
 店員は軽く頷いて促した。おそるおそる手にする。馴染みの感触だった。相違差を確かめる。違和感すらない。試しに被った。なにもない。全て同じ。存在感。思い。心。
 どうだい、と店員は訊ねるが、どう答えればいいのか判らなかった。見た目だけが綺麗になった、としかいいようがない。
「……まぁ、しかたないか」
 返答のしようがないのを知っていたので、店員も苦笑を浮かべる。
「結婚相手の化粧前と後を知ったようなものだからね」
 
 なんとなく時計を確かめると、店に入ってから20分ほどしか経っていないことに気付いた。その事実に、奇妙な神秘の時間は、まさにあっという間の出来事だったのかと思い知らされる。しかし、ショースペースの端から漏れ入る僅かな光の色は、それでも夕日に変わるまでの経過とも知れた。店内に他の客はおらず、コートハンガーの群衆は、変わらずに花を咲かせていた。
 その中にひとつ、新たに帽子が掛かる。
 未購入のまま儀式を行った帽子は引き取ることになった。見た目は新品でも、他人には他のとに違和感を与えるらしく、もはや商品としては置けないとのことだった。今までのは、その交換として差し出された。形が崩れていても、少々の手入れである程度戻るし、それをusedとしておけば問題無いらしい。それに、usedにしなくても、整えておけば新品としても誰にも判らないだろう。無理矢理のような気がしたが、確かに、これなら店のものは持ち出さないで済むのかもしれない。何度も確認したが、答えを確認しただけに終わった。
 翌日、この店は閉まっていた。それどころか、建物自体が別物になっていた。訳が判らなくて、幾度も場所を確認したが、その事実は変わらない。しばし呆然とした後、ふと帽子を手にする。昨日のは馬鹿馬鹿しい幻だったのだと思いそうになったが、手のそれは新品だった。紛れもなく、昨日のは事実だったのだが実感がなかった。しばらく見つめていると、あの店員の言葉を思い出してきた。
『感情をどうやって表せばいいのか判らないんだ』
 彼はしばし、帽子が思っているらしいことを口にした。道具の言葉は、誰がどう聞こうが判らない。ガラスの擦れる音にも「痛い」とは聞くことができないのだ。こじつけとも取れるが、結局のところ、彼は代弁者だったのだろう。しかし、これが新たな商法だとしたら、これは見事なものだと思える。深く愛用しているほどに、理屈抜きで嵌ってしまう。
 テナント募集の張り紙の角を見ながら考える。やや剥がれかかっているのを確認してから歩きだした。
 あのあと、いったいどれくらいの客が入ったのだろう。もしこれだけなのだとしたら、随分割に合わない商売だ。そこまで考えた途端、ひとつの考えが頭をよぎった。馬鹿らしい考えだったが、話を通せるだけに笑いたくなった。
 ――次はいつ頃かな。
 歩行のリズムを少し崩して、帽子をずらした。すれ違うヒトたちの興味を引かないようそっと笑うと、十字路を曲がった。カーブミラー越しに、先程の店舗にひとりの客が入っていくのを見た気がした。
 
『君の方はどうだい? 別れたい?』
『そんなに易々捨てる気はありません』

 後書き
 モノは大切にって話。
 シンプルに作ったつもりですが、イメージを表現するのにやたらと苦労した話でもありました。
初版:06/02/24
第二版:06/2/25